まえがき

 スペイン・レポートに続き、これからアルゼンチン・レポートをお届けします。
 日本から見て地球のちょうど反対側の国、距離では一番遠い地域にある南米アルゼンチンに、1カ月ほど行ってきました。僕は小さいころから南米の音楽に親しみ、ギターを手にするようになってからは、アルゼンチンのフォルクローレを中心に演奏してきました。北西部にあるサンティアゴ・デル・エステロは、チャカレーラやサンバなど、アルゼンチン・フォルクローレの最もさかんな地域の1つで、多くのアーティストを生み出してきました。その中でも特に重要なカラバハル一族の音楽は、僕の「ギタリストとしての原点」でもあります。
 正直言うと、1999年にプロ活動を始めて以来、実際の演奏はどちらかというと、スパニッシュ・テイストをもつアンサンブルやボリビアのフォルクローレが中心でしたし、ギタリストとしての意識はフラメンコに集中していました。それはまたスペインに「旅」に出た理由でもあります。しかし、こうした「旅」を通して、今書いたような「原点」であるアルゼンチンへの気持ちもまた大きく育ったのでした。
 今回、僕はサンティアゴに住む音楽家、フアン・カルロス・カラバハルのところにお世話になってきたのですが、知り合ったのは僕が10歳だった1990年のこと、僕たち家族が録音したメッセージと演奏のテープを、サンティアゴに出かける新潟の瀬賀倫夫さんに託したところから始まったのでした。前年の1989年、アルゼンチン・コスキン祭に出演した瀬賀さん(ロス・デル・セキヤ)はチャカレーラの故郷サンティアゴを訪れ、フアン・カルロス・カラバハルとの知己を得たのです。帰国後、僕の父はカラバハル一族と親交をもつ人が現れたことを驚き、瀬賀さんはサンティアゴ音楽、とりわけカラバハルの音楽に傾倒している家族が日本に存在したことに驚いたのだそうです。
 フアン・カルロスは、僕たち家族に大変興味を持ってくれたようで、自分の持つラジオ番組でもテープを何度も流してくれました。「タカオ、ヨーコ、チエイ、すぐサンティアゴへおいで! タカオとヨーコが来られないのならチエイは必ず来い!」と言われて、それを寝かせて10数年、ようやく2004年の1月にそれをかなえることができたわけです。
 アルゼンチンではサンティアゴに着いた翌日にいきなり地元のフェスティバルに出演したり、フアン・カルロスとコスキンで珍道中をしたり、サンティアゴの人々との交流を通じてさらにゆるゆるな生活を覚えたりします。そしてグループ「エル・レフンテ」とのコンサート、最後はブエノスアイレスの夜……と、それはまるで夢のような1ヶ月でした。このレポートのもととなる素晴らしい経験をさせてくれたアルゼンチンの「家族」に、心から感謝します。(2004.3.3)

          

                             2004年

1月15日(木)~16日(金) Tokyo-New York-Buenos Aires-Santiago del Estero

 成田を午後に出発。ニューヨーク行きの便に乗るのは初めて。12時間弱のフライトでニューヨークのJFK空港に到着。外は雪だ。かなり面倒な手続きが待っているだろうと思ったが、それほどではなかったので一安心。税関で「Are you Guitarist?」と聞かれ、ひとくち英会話。こうしたことができると少しは気が楽になる。ここは乗り継ぎの都合で一度出なくてはいけないので、荷物を手に外へ。それでも、ターミナルが同じなので助かった。6時間ほど待って、定刻通りブエノスアイレス行きの便に乗る。東京から乗り継ぎを含めると30時間ほどで、エセイサ空港に到着。
 ついに、子どものころからのあこがれだった南米大陸に、立った。さすがに遠かったが、日本からこれだけの時間で、地球の反対側に来られてしまったのだ。時間も季節も日本と正反対。真冬から真夏へ、現地時間16日の早朝だがけっこう暑い。ここからさらに、国内線のホルヘ・ニューベリー空港=アエロパルケへお乗換え。ブエノスアイレスは一度パスし、フアン・カルロス・カラバハル(フアンカ)たちの待つサンティアゴ・デル・エステロに向かうことにした。なお、空港乗り入れのタクシーはあまり安全ではないと聞いていたので、ここではレミース(ハイヤー)を頼み、連れて行ってもらうことに。高速道路を走りながら、いろいろブエノス市内やアルゼンチンの状況について教えてもらう。経済危機の真っただ中にあるアルゼンチンだが、現在はやや落ち着いている。ただ、特に外国人を狙った犯罪は、スペインなどよりも多いことは間違いないだろう。これだけは本当に気をつけなければならない。
 さて、アエロパルケはラ・プラタ川に面している。海のように大きな川だ。対岸(ウルグアイ)はもちろん見えない。このところブエノスアイレスでは雨が多く、その影響か水は茶色。これだけ壮大な茶色というのは見たことがない。『母をたずねて三千里』のマルコになった気分だ。お昼の飛行機でブエノスアイレスを出発。この飛行機はトゥクマン行きで、途中、サンティアゴを経由する。「母」の待つトゥクマンはしばらくおあずけ。
 パンパを眼下に、1時間30分のフライトを経て、サンティアゴに到着。フアンカの長男ファビオ、次男のルーカス、そしてルーカスの娘グアダルーペと甥のサンティが迎えに来てくれた。ファビオとルーカスには、2001年にフアンカとエル・レフンテが来日したときに会っている。ルーカスの車に乗せてもらい、彼の家へ向かう。今回僕はルーカス家に寝泊まりさせてもらうことになった。広い道、大きな家、そしてほど良い「つくり」の粗さ……ではなく、大らかさ……車窓から見える景色は、ここが「アメリカ大陸」であることを十分に伝えてくれる。それにしても、すごい田舎に来たものだ。
 部屋に荷物を置き、夕方まで休憩した後、いよいよフアンカの家へ向かう。そして午後6時、ついにご対面。フアンカとその妻アリシアが出迎えてくれた。2人とも本当に元気そうだ。中庭に案内してもらう。彼の名曲『家へ入れよ』『テーブル』に描かれている世界そのままの風景がそこにあった。15年前自分がイメージしたものが、その通りに目の前にあるというのは、もう感動以外の何ものでもない。
 しばらく想いにふけっていると、マテ茶を出してきてくれた。肉料理が中心のアルゼンチンの食生活には欠かせないお茶。飲み方には大きく分けて2種類あり、他のお茶と同じようにお湯で煮出して飲む方法と、専用の容器に茶葉とお湯を入れて銀のストローで少しずつ人とまわしながら飲む方法。アルゼンチン人の重要なコミュニケーションツールでもある。今日はもちろん、後者の方法。ちなみに南部では砂糖を入れず、サトウキビが多く生産されている北部では砂糖を入れて飲むのが一般的らしい。サンティアゴではこちらも当然後者の方法。しかもフアンカの場合、茶葉とほぼ同量を入れるようでございます。
 フアンカ家には1989年の瀬賀さんの初来訪以来、フォルクローレを愛する日本人(ほとんど瀬賀さんのつながりで僕も知っている人たち)が何人も訪れていて、日本から来た友人を招くのはすっかり彼のライフワークになっているようだ。さっそく、いろいろな写真を見せてもらう。来日時の写真も多く、ファビオは11日間の滞在中になんと500枚も撮ったそうだ。さあ、僕は何枚撮れるかな。

  (写真:パパ・フアンカとママ・アリシア)



1月17日(土) Santiago del Estero-Fernandez


 今日は僕の24回目の誕生日。生まれて初めて海外で迎えることになった。ただ、時差はマイナス12時間なので日本時間ではもうすぐ17日も終わってしまう。これはもうしょうがない。ルーカスに起こしてもらい、まるで昼寝から目覚めるように起床。ルーカスは妻のマリア(マリ)、1人娘のグアダルーペ(ルピータ)と3人暮らし。マリは警察官で、バカンスのこの時期も、いつも朝から忙しく働いている。ルピータはいつも昼過ぎまで寝ているらしい。マテ茶の煮出すほう……マテ・コシードをいただいた後、ルーカスと2人でフアンカ家へ。
 幸運なことに、今夜はさっそく、「フアン・カルロス・カラバハルとエル・レフンテ」がサンティアゴ州内のフェスティバルで演奏するというので、午前中の練習に参加させてもらうことになった。「エル・レフンテ」とは「ごった煮」という意味で、あるアーティストとそのグループ、と表現する際によく使われるようだ。メンバーは、ギター・音楽監督のルーカス(次男)、ギター・ボーカルのマルティン、フルート・キーボードのレポ、そしてボーカルとパーカッション(ボンボ)のピルーロ。サンティアゴ音楽の魅力の1つはその圧倒的なコーラスの力であるが、もちろんレフンテも全員がコーラスをする。部屋の中でみんなに囲まれてコーラスを聴けるとは、僕にとっては素晴らしい誕生日プレゼントだ。
 ただ聴くだけではなく、ギターで何曲か参加してみたり、リクエストされて、昔自分で歌ったことがある曲を歌詞を見て思い出しながら歌ってみたりもした。まあまあの反応をもらう。今日の演奏でゲストとして呼んでもらえるようだが、詳しいことは分からない。スペインである程度実践して、1対1ではそれなりにやりとりできるかも、と思いつつあったが、第三者同士の会話を聞き取るのはまだまだ難しい。加えて、スペインのスペイン語とアルゼンチンのスペイン語は用法や「なまり」が微妙に異なるので、まずは音になじむしかない。
 お昼はそのままフアンカ家でいただく。アリシアの料理は本当においしい。そしてなんと、誕生日のケーキまで用意してくれていた。アルゼンチンに来る前に、この日が自分の誕生日であることをなんとなく伝えていたのだが、ここまでしてもらえるとは……。これはアルファホールというケーキで、中にキャラメルクリームが入っている。嬉しすぎます。
 ルーカス家に戻ると、そのままシエスタ(昼寝)に突入。ルーカスは午後サッカーに行くそうだ。大のサッカー好きのルーカスは毎日のように仲間とサッカーに興じるという。ということは、フェスティバルでの演奏時間はかなり遅そうだ。「4時か5時には起きる」と言って寝に入る。起きてからサッカー行きのルーカスと車でフアンカ家に向かう予定。
 昼寝から起きたのはちょっとプラスして午後6時すぎ。うおっと思いリビングに出ると、ルピータが1人座ってテレビを見ていた。ルーカスがいるかいないかは分からない。とりあえず眠気を覚ますためにシャワーを浴びる。出るとルピータがソファーからこっちを見ている。「パパは?」と聞くと、ルピータが手に何やらメモとお金を持っている。読んでみると……「サッカーに早く行くことになった。グアダルーペを連れて、フアン・カルロスのところにタクシーで行ってくれ。どこに乗り場があるかはこの子が知っている」……! 僕は昼寝のためにグアダルーペをずっと待たせていてしまったようだ。こんな小さなかわいい女の子を待たせるとは、僕はなんと罪深い男だ。あわてて演奏用の準備をし、外に出る。「乗り場」はどうやらガソリンスタンドらしい。天然ガスのスタンドの方に給ガス中(?)のタクシーがいたので頼む。少しあせったものの、無事ミッション完了。
 急いで着いても、実際に演奏に出発するのは夜になってから。他のメンバーはまだ来ていないし、フアンカはまだ昼寝中だった。ファビオや甥のイニャキと話しながら、しばらくゆっくり過ごす。ルピータはフェスティバルから帰ってくるまでここで預かるそうだ。アリシア母さんの夕食をおいしくいただく。と、ここでワインがないので、ファビオとワインを買いにガソリンスタンドへ。アルゼンチンではガソリンスタンドはまさにコンビニ。24時間営業で、売店でいろいろ買える。車のためのお店にお酒が堂々と置いてあるのは興味深いけど……。
 ふと夜空を見ると、明らかに何かが違う。初めて見上げる南半球の星空。オリオン座が逆立ちしている。となると、探すのはやっぱり南十字星。ファビオに聞いて、明るく輝く4つの星を見つけた。ちょっとした天文少年だった僕にとって、これは1つの夢だった。またその近くには、太陽から一番近い恒星のひとつ、アルファ・ケンタウリがよく見える。
 帰るとメンバーが来ていた。レフンテの演奏に使うトラックはレポの家からのもの。前に4人、後ろの荷物室に3人乗りこみ、イニャキを含む7人で夜の10時を過ぎてから出発。場所は、サンティアゴ市から60kmほど離れたフェルナンデス。ちょうど祭りのシーズン、しかも週末。途中通る市内の広場でも何かやっている。日本で60kmというとけっこう離れているように感じるが、途中は何もないので、1時間ほどで目的地に着くことができた。
 街に入ると、まったく人っ気がない。一瞬不安になるが、「全員祭りに行っているんだ」というフアンカの予想通り、会場に近づくといきなり人と車の列でいっぱい。ゲートで「フアン・カルロス・カラバハル」というとさっと係員が開けてくれた。さすが。中に入るとステージからチャカレーラが聞こえてくる。車を止め、さっそく……と椅子だけ出す。どうやらこれは待機用の椅子らしい。順番が周ってくるまではかなり待つようだ。ここは駐車場の後ろで様子を見ることに。
 何組か演奏し終わった後、司会のトークが冴え渡る。アルゼンチン最大のフォルクローレ・フェスティバルがコスキンで毎年1月に開かれていて、そのビデオを子どものころよく見ていたが、その司会の話しっぷりとまったく同じ。これぞアルゼンチンか。と、続いては「オラシオ・バネガス」のステージだ。オラシオ・バネガスは、カラバハルと並び、サンティアゴを代表する音楽家だ。僕も好きで、子どものころよく聴いていた。ちょっと出ていってみる。野外のフェスティバル、最初のうちはかなり音響が悪かったが、生バネガスの演奏をすっかり堪能してしまう。
 終わった後しばらくすると、イニャキがやってきて、フアンカが僕を呼んでいるという。行ってみると、フアンカがバンの中に向かって話していた。それはオラシオのグループのバンで、フアンカは彼に僕を紹介してくれた。フアンカとオラシオのつきあいは長い。「あなたのCDを持っている」と言うと、オラシオは喜んで、なんと彼の一番新しいCDをプレゼントしてくれた。なんかものすごい誕生日になりつつあるな。
 その一方、いつまでたってもこちらの出番はやってこない。3時、4時、5時、とすぎ、ついに夜が明けてきた。6時を過ぎ、やっと「準備」の声がかかった。楽器や機材をもってステージ脇へと入る。舞台裏で進行を確認。僕は最後の曲でフアンカのMCで呼んでもらうことに。音響の都合で、ギターはルーカスのものを彼のポジションで借りることになった。いくつものグループが次々と出るフェスティバル。打ち合わせも直前のみで本番に入る、まさに一発勝負。
 演奏開始は朝の6時半から。だいぶ夜も明け、3000人くらいいたお客もかなり減ってしまった。それでも、フアン・カルロス・カラバハルとエル・レフンテは、素晴らしいステージを見せてくれた。残っているお客の声援も大きい。
 最後のテーマ『Hermano Kakuy』のところで、「サンティアゴでチャカレーラを学ぶために昨日日本のサイタマから来たばかりのチエイ・コバヤシです」と紹介され、ステージへ。こういうゲストのような形で1人で出て行くのは日本でも経験がないのでなんだか恥ずかしいが、今までビデオや生で見て研究(?)した通りにやってみる。その姿はあまり自分では見たくないが、なんとか形にはなったと思いたい。
 演奏を無事終え、もう明るくなった中を撤収に入る。宴もたけなわの状態でやるのはけっこう難しいし、エル・レフンテのライブとしてはかなり厳しい条件だったが、これもフェスティバルだ。アルゼンチンに来て2日でこんな経験ができるとは……これで本当にいいんでしょうか。でも今日は僕の誕生日ということで、ここで落ち着かせていただきます。
フェルナンデスのフェスティバル会場(ほぼ使用後) Festival de Fernandes (despues)
(写真:フェルナンデスのフェスティバル会場(ほぼ使用後)/左からイニャキ・レポ・ピルーロ・マルティン、全員徹夜あけ)



1月18日(日) Santiago del Estero

 昼過ぎに起きる。シャワーでむりやり体を起こし、フアンカ家へ。毎週日曜日は家族みんなで集まって食事をするそうだ。うれしいなあ♪ と、イニャキはパソコンで何か写真を編集している。エル・レフンテのライブ版CDのためのジャケットだ。毎年のはじめに、サンティアゴ市で「チャカレーラ・フェスティバル」が開催されるが、これは今年の録音のようだ。製品用かプロモーション用か分からないが、楽しみだ。それにしてもすごくいいジャケットだ。彼にはデザインの才能がありそう。例によって食事は僕がいちばん多くいただき、楽しく食べ終える。帰ったらとにかく寝ることに。
 夜はマリの親戚が来てピザを食べながらおしゃべりをする。日本のことにはすごく興味を持っているようだ。フアンカを通して日本の人と実際に関わる機会が多いからだろう。サッカーの話でも盛り上がる。アルゼンチンのサッカーファンにとって日本は重要な場所であるという。その理由のひとつが、南米の「リベルタドーレス・カップ」だ。南米のクラブチームが争い、その年の優勝クラブが、12月に日本でヨーロッパのチャンピオンズリーグの優勝者と「トヨタカップ」として試合をする。去年はアルゼンチンのボカ・ジュニオール(ジュニアーズ)がミランを破り優勝。12時間の時差で、アルゼンチンでは朝の7時から生放送したというが、みんな見たそうだ。そしてその日は1日中お祭り騒ぎだったそうだ。んーさすが。

1月19日(月) Santiago del Estero

ルーカス  Lucas y bistec por su cocinar 今日からチャカレーラの日々。小さい頃から弾いていた「カラバハル」のチャカレーラ、それを「カラバハル」のルーカスに稽古をつけてもらうのである! まずチャカレーラの定番ともいえる曲、「カレテーロ橋から」を練習。この橋はサンティアゴと隣町ラ・バンダの間を流れる川、リオ・ドゥルセにかかっている。
 練習の後はルーカス特製のステーキをいただく。そのまま昼寝に入る。あっと思ったら4時間も寝てしまっていた。まだ時差ボケが直らないのか、あるいはこういうパターン(?)をもう確立しつつあるのか。
 さて僕は、アルゼンチンにもまた、少ない荷物でやってきてしまった。ギター以外には、もともとライブ用に使うキャスターバッグとリュックのみという、奇跡的というか無謀なコンパクトさ。夏用の半ズボンやサンダルすらない。ただ、去年のスペインでの夏は、安全を考えて長ズボンと靴で通してしまったし、もともとないといえばない。そこで、半ズボンとサンダルを買いに連れて行ってもらう。市内では初めてのお買い物。昼休みもあけ、夕方の街にはたくさんの人が繰り出して活気にあふれている。経済問題で物価はかなり不安定だというが、見たところ「もの」はあるし、生活必需品はなんとか手に入れられるようだ。
 こうして、夜はフアンカ家に連れて行ってもらい、ルーカスはそのままサッカーへ。そのあと迎えに来てもらい、帰るというのがここでの日常になった。

1月20日(火) Santiago del Estero

マンシージャ一家との食事  Cena con famila Manzilla チャカレーラのレッスンは続く。この日は新しいテーマを弾く。弾いた後はたくさん昼食をいただき、その後はまたしても昼寝。
 昼寝からあけると、なんだかいいにおい。マリが料理を作っている。どうやらフアンカ家に持っていってみんなで食べるようだ。
 グアダルーペの友達とも一緒に。着くとたくさん人が来ていた。ビデオで見た顔。マンシージャ一家だ。フアンカの娘マルセラとその一家。マルセラはイニャキの母親である。マリ特製のタルトとアリシアママの料理で乾杯。大きなタルトの中身は3種類。ハムチーズたまご、ミート、そしてチョクロ(とうもろこしの粉)をベースにしたクリームで、どれも絶品。アリシアのサラダやローストチキンも最高です。マンシージャにとっても、日本人を迎えるのは習慣になっていて、「ミチオ(セガ)は元気か?」と、ここを訪れた人たちのエピソードを聞かせてくれる。娘のマルティマンシージャと  Manzilla y Chieiータは僕がセガ・ビデオで見た当時はまだ少女だったが、すっかり大きくなって、お母さんにそっくり。……って僕がそういうのも変か。と、ルピータの友達の女の子は僕のカメラに興味を持ったようだ。そこでみんなを撮ってあげることに。どんどん盛り上がり、あげくのはてに1人1人ブロマイド(?)撮影。女の子はポーズを決め、男の子は何かネタをやる。みんなかわいすぎです。安全のためインターネット上では小さな子たちの写真は控えたい。残念です。
 もう1つ残念なのは、マンシージャ一家と会えたのはこの日だけで、その後会えなかったこと。会っているときは、「今度どこどこに連れて行ってやる」と誘ってくれたが、その後の日程が合わず、ちょっとさびしい。でも、まず「出会えた」のが大事。これも旅の宿命さ。

1月21日(水) Santiago del Estero

ある朝の練習  Ensayo con Lucas y Repo 朝、起きるとレポが来ていた。さっそく、きのう練習したチャカレーラをあわせてみる。朝からこういうアンサンブルができるというのは本当に気持ちがいい。録音をとってみようと、MDとマイクのセットをとりだす。このマイクはきれいに録音できる。さっそくエル・レフンテのためにマイクを譲ってくれないかと頼まれる。日本の製品は本当に人気があるようだ。今回もフアンカから前もってメールで日本製の文房具を頼まれていたし、エル・レフンテは来日の際に、MDの機械をはじめ、いろいろ仕入れたようだ。
 夜、フアンカから写真を撮ろうといわれる。金曜日にはフアンカとコスキン祭に行くのだが、その際に必要となるものらしい。証明写真というより、指名手配の写真みたい。
この顔を見かけても通報しないでください。 No son fotos de buscar.この顔を見かけても通報しないでください。 No son fotos de buscar.
1月22日(木) Santiago del Estero

 写真の現像とバスチケットの購入に出かけた以外はとにかくギターを弾き、たくさん食べ、寝る。ある意味理想的な生活だ。ぜったい太るなこれは。
 アルゼンチンの食生活はとにかく肉が中心。特に牛肉と鶏肉の量は、スペインの食生活を経験した僕が見てもすごい。イタリア料理の要素が多いので、パスタやピザもスタンダード。そして極めつきは砂糖。紅茶やコーヒーにはたっぷり砂糖を入れるし、お菓子の甘さは日本どころか、ヨーロッパの比ではない。たまに「ダイエット」と称してシュガーレスの甘味料を使ったりするが、もはや焼け石に水。ヨーロッパの食文化をベースにアメリカンサイズとくればもう最強です。「チエイ、帰りに飛行機の座席をもう1枚買うなんてことになるなよ」と、食事のたびにネタにされた。そのうち自分から言い出すようになったので、救いようがありません。
 ちなみに、サンティアゴではあいさつのときによく「やあゴルド」という言葉を使う。ゴルドとは「おデブちゃん」を意味するが、これはむしろ親しみをこめた表現。たくさん食べて幸せな生活を送っている証なのかもしれない。でも、どう見てもスレンダーな女性や子どもにさえ「Hola,ゴルディ~タ」と使っているし、ちょっと失礼でしょ。まあ、こだわることはないか。
 さあ、明日はいよいよコスキンだ。

(写真:ルーカス/マンシージャ一家との食事/マンシージャと/ある朝の練習/「この顔を見かけても通報しないでください。」)



1月23日(金)~24日(土) Santiago-Cordoba-Cosquin


 夜、コスキンへ行く準備をし、フアンカ家に出かける。このフォルクローレ・フェスティバルには、アルゼンチン全土からフォルクローレのアーティストが集まってくる。今年は1月23日から31日まで、毎晩10時から翌朝までおこなわれている。今年はフアンカやエル・レフンテはフェスティバルには出演しないし、もともと家族も行っていないらしい。ということで、フアンカと僕の2人だけで行くことになった。4泊5日、コスキンでは3泊の旅。フェスティバルのオープニングをテレビで見つつ、荷物をまとめてタクシーに乗る。ファビオ、イニャキの弟マノロがバスターミナルまで送ってくれることに。
 車の中。ややせまいのはよしとしても、何かがおかしい。となりに座ったファビオがくすくす笑っている。「どうしたの?」と聞くと「右に沈んでるよ…」。中は満席。車内の状況を整理すると、前は左側に運転手(細身)、助手席がフアンカ(ゴルド)。後ろは左がマノロ(子ども)、中央に僕(ややゴルド)、右にファビオ(ゴルド)…右側がゴルドばっかりだし。タイヤの空気が抜けてそうなことも手伝って、傾いとんなー。
 さて、ななめに走ること10分、バスターミナルに到着。中は各地へ向かう夜行バスを待つ人でいっぱい。特にブエノスアイレス行きは、いろいろなタイプのバスが毎日何本も運行されている。アルゼンチンはとにかく国土が広く、かつては鉄道も運行されていたが、この距離を維持するためには採算が合わないらしく、今はほとんど廃止されているようだ。飛行機は高いので、人々にとっては、バスがまさに生活の足なのだ。
 ファビオがいろいろ気を使ってくれる。どうやらこの組み合わせが心配らしい。還暦を過ぎた父親と初めてアルゼンチンに来て1週間の日本人を送るのだから無理もない。「フアンカをよろしく」と頼まれ、出発。フアンカと僕はコルドバまで約600kmの道のりを6時間かけて移動。今回乗ったバスは2階建て。かなり広々としていて、座席は日本の鉄道のグリーン車よりもゆったりとしている。足も乗せられ、130度くらいまで倒せるので快適。
 翌朝、6時過ぎにコルドバに到着。道ゆく人は、どちらかというと金曜オールナイトで遊んだ若者たちの帰りの姿が多そうだ。ここはアルゼンチンでも指折りの大都市。バスはこれまた大きなバスターミナルに入っていく。降りて荷物を受け取り、コスキン行きのバスに乗り換える。あまり時間がなくてもコーヒーの一杯くらいは飲んでおきたい。コーヒーを注文すると、一緒に少量の炭酸水をつけてくれるのはうれしい。このサービスはどのカフェテリアでも同じようだ。
 7時前のバスで出発。川沿いの美しい山道を抜け、ダムを渡ると大きな湖が。このあたりはコルドバ州きっての高級保養地らしく、それっぽい車や人々の姿を多く見かける。バスはさらに湖畔を通り、北へ向かう。コルドバから2時間弱で、コスキン到着。8時間の長旅も忘れるほど、静かでやさしい朝の光だ。
 宿泊予定のペンションへ。フアンカが毎年泊まっているところだという。時刻はまだ朝の9時前。昨日みんなフェスティバルに繰り出したことを考えると、誰も起きていないんじゃないかな。と、オーナーが起きて来てくれた。レイナはフアンカと古くからの知り合いで、僕も含めて温かく迎えてくれた。通してもらった大きなリビングはドミトリーで、ほかの宿泊客も一緒。あちこちからいびきが聞こえる。安全面はちょっと心配だが、けっこう楽しいかも。とりあえず少し休ませてもらうことに。
 しばらくすると、部屋の人々が起床。と、みんなフアンカのところにあいさつにやってきた。この部屋の人々はみんなフアンカとは顔なじみだった。しかも全員記者。新聞や雑誌、ラジオの取材で来ており、ジャーナリストでもあるフアンカとはまた、仕事仲間でもあるのだ。久しぶりの対面で涙する人も。彼女の名はジャクリーン(ジャッキー)。地元コルドバの記者だ。
 マテ・コシードをいただいてから出発。フォルクローレ・フェスティバルの会場はペンションからすぐの所にある。広場に設置されたメインステージのもようはアルゼンチン全土に生中継され、周りのペーニャでも毎晩朝まで演奏が続く。まさに国民的行事の1つといっていいかもしれない。
 祭りは夜と聞いていたので、昼のコスキンはさぞ静かだと思いきや、たくさんの人で賑わっていた。ただどちらかというと、関係者の集まりのようだ。フアンカ、ジャッキーと3人で、まずはメイン会場の関係者用の入り口からいきなり入る。さすがフアンカ、顔パス。連れの日本人にもおとがめなし。人に会う度にわざわざ僕を紹介してくれるので助かる。そのままするするとステージ横の本部に入ってしまう。ここで例の写真を出す。一応分かってはいたが、関係者のパス用の写真だった。ここではやはり僕は一度止められた。するとフアンカ、「コスキンを取材するために日本からやってきた、自分と同行して写真を撮ってくれることになっている」。すばらしい! こうして僕はフアン・カルロス・カラバハルの「Santiago Guitarra y Copla(サンティアゴのギターと歌)」所属のカメラマンとして、めでたくパスを取得することになった。ここまで書いたが本当はオフレコかな?
 外に出て会場付近の様子を見ることに。歩いインタビューを受けるフアンカ Peliodista Juancaているだけで、いろいろな人が声をかけてくる。フアンカは有名人。でもこれだけ多くの人から握手と抱擁を求められ、かつその1人1人としっかり話ができるのはすごい。仲間のアーティストからもジャーナリストからも非常に高い信頼を得ていることの証だと感じた。カフェテリアに入ると、近くのテーブルではラジオ局が店を広げて中継している。と、さっそく1人マイクを持ってフアンカの所にやってきた。その場でアポを取り、すぐに生出演。5分以上よどみなく話し続ける。テーブルに同席していた記者も誰か見つけたのか、話を聞きに出て行った。いったい何なんだこれは。僕は知らないうちに「現場」のど真ん中でたたずんでいた。
 ひとしきり終わると、みんなでお昼を食べに行こう、ということになった。近くの食堂に入ろうとすると、ジャッキーの携帯が鳴る。どうやらリポートの時間らしい。店の前で電話報告中、ジャッキーの後輩のフェルナンドと2人で茶々を入れて遊んでいると、そのお返しに「ここに私の友人の日本人がいるので話を聞いてみることにします」……えっ?ただいま電話出演中 Jackie, Fernando y Chiei en vivo
 ユーモアというか、いたずらのレベルは彼らの方がはるかに上。ちょっと色気を加えたハスキーボイスでジャッキー姉さんのインタビュー開始。「お名前は?」「チエイです」「ハポンのどこから?」「トーキョーの近くのサイタマというところです」という感じで進む。アドリブが苦手なのであまり気の利いたことは話せなかったが、とにかく「コスキンに来られて嬉しい」と連発して終了。思わぬ電話出演だったが、僕としてはまあこんなものかな。そのままフェルナンドへバトンタッチ。わりと無口そうに見えた彼だが途端にキャラが変わり、怒涛のように話し始めた。とにかくアルゼンチンのラジオは間がない、というほどによくしゃべる。以上、コスキンの定食屋前からの中継でした。
 お昼は牛肉の煮込みをいただく。料理の味もよし。が、驚くべきは飲み物。コーラを頼むと2リットルボトルがどんと出てくるし、1人でビールを頼んでも中ビンから。夏場には最高です。
 部屋に戻り、僕も得意なシエスタへ。ゆうべの移動もあって、4時間も寝てしまう。目覚めるともうかなり暗くなっている。準備をして10時からのフェスティバルに備える。花火が鳴った。
 コスキン・フェスティバルは今日が第2夜。他のメンバーはもう先に会場に入っている。僕とフアンカでゆっくりと裏口へ。パスについているバーコードを読み取ればOK。カメラマン・チエイが入った。舞台袖は出演者とプレスでいっぱい。特にダンサーは転換が多いので、とても忙しく動いている。
 間をすり抜けて関係者用の席に入ろうとするが、けっこう大変。その間にもフアンカはまた知っている顔を見つけては大声で叫び、抱き合い、語る。なかなか席にたどりつけない。ただでさえ周りはバタバタしてるのに……ファビオに頼まれた「よろしく」はこういうことか。よく見ていないと。ステージを早く見たい気持ちはとりあえず抑える。
 関係者用の席はステージそばの右側(上手側)にあり、かなり見やすい位置だ。もうステージは始まっていて、幕を下ろした前ぎりぎりのところで出演者が演奏していた。おそらく転換に合わせて前でやったり後ろでやったりするのだろう。多くのグループが次々に出演する。
「ちゅらちゅら」のステージ Grupo "Chura-Chura (Rinda-Rinda)" MCが入る。しゃべり方はビデオで聞きなれたものとやっぱり同じ。と、「次は日本からのグループです」という声。今日は日本代表の出演する日でもあった。コスキンには毎年日本からも参加グループがあり、秋田のフォルクローレグループ「ちゅらちゅら」が登場。福島県の川俣町では「コスキン・エン・ハポン」というフェスティバルが毎年秋に開かれており、その選考会で選ばれたそうだ。スペイン語でいうと「リンダリンダ」。
 ちなみに僕も川俣で15年前に一度だけ「フーマ」で出演している。僕がギターを人前で初めて弾いたのは実はその時だった。川俣の「コスキン」は日本のフォルクローレ愛好家が多数集まるが、そのほとんどがアンデスもの、つまりケーナやシーク、チャランゴのアンサンブルを主体にしたグループで、実際に演奏するのもボリビアやペルーの曲が中心。アルゼンチンのフォルクローレ、特にチャカレーラやサンバを演奏する人は非常に少ない。しかもこの年は当時のコスキン市長を招いての開催だったため、アルゼンチン・フォルクローレの特別プログラムを組まなければならなくなったそうだ。そこで、まだ知り合って間もない瀬賀さんから誘われて、まだギターを初めて4ヶ月しか経っていなかった僕も出演することになった。もちろんこのいきさつは後で聞いた話で、当時の僕自身はとりあえず弾くことでいっぱいいっぱい。というわけで、僕も「コスキン」には少なからず縁があるのです……。
 さて、「ちゅらちゅら」のステージは、アンデスものから。フアンカとレフンテは2001年に川俣でも演奏しているので、なぜ「日本代表」のステージがアンデス音楽中心なのかは分かっているし、お客もそうであることは知っている。しかし、そもそもアンデス音楽もここでは非常にポピュラー(というより地元…)なのだから、この際あまり気にしないことにしましょう。そんなことは最初から考えずとも、「ちゅらちゅら」の演奏はよかった。MCもスペイン語でするし、ポンチョを脱ぐと中にはみんなアルゼンチン代表のユドゥオ・コプラナクのステージ Espectacuro de Duo Coplanacuニフォームを着ていた。客席にも大うけ。ビオレータ・パラ(チリ)の名曲、メルセデス・ソーサの歌でヒットした『人生よありがとう』でしめ、見ていてとても好感の持てるステージだった。うらやましい。
 フェスティバルは続く。記者席のいいところは、なんといっても記者とのつながりができること。コルドバの記者であり学者でもあるマリアーノ、ラウラ夫妻と話が弾む。12時を過ぎるとさすがにお腹もすいてくる。昼寝の後から食べていなかったので、みんなで外に出て、会場併設の食堂に入ることに。よく食べ、よく飲んだ後、フアンカがペーニャに連れて行ってくれるという。ジャッキーたちとも待ち合わせているらしい。そのまま、メイン会場から少し離れたペーニャ「コプラ」に向かう。ここはサンティアゴの人気デュオ「Duo Coplanacu」らが毎晩弾いていて、中は人でいっぱい。食べてしゃべって踊る。まさにもう1つのフェスティバル会場だ。ドゥオ・コプラナクはCDの印象そのまま、風貌もさることながら声も一度聴いたら忘れられない独特のものがある。1時間以上、チャカレーラを堪能することができた。外に出るともう朝の4時半。最後まで体が持つかな?

(写真:インタビューを受けるフアンカ/ただいま電話出演中/「ちゅらちゅら」のステージ/ドゥオ・コプラナクのステージ)



1月25日(日) Cosquin

ダンサーのリハ中 Ensayo de bailarines 今日も朝からフアンカに連れられてあいさつまわり。コスキン本部入口で何人か関係者たちと会話。この時間は記者があちこち取材をしている。アーティストにとっても大事なプロモーションの時間だ。
 舞台袖に入ると、ダンサーが今夜のためのリハーサルをしていた。こういう場にいられるのは楽しい。フアンカがしゃべっている間にしばし鑑賞。
 昨日も立ち寄ったカフェに行くと、フアンカがある一家に呼び止められた。先に座っていたのは現在売り込み中のシメナという女性歌手。彼女はコスキンフェスティバルに先立って行われるコンクール「プレ・コスキン」に今年出場したのだった。ここで通った数組が、フェスティシメナ・パウラ・ヒメネス Ximena Paula Gimenezバルのメイン会場に出演できる。フェスティバルのプログラムには「プレ・コスキン」という枠しか書かれていないが、僕の見た限り23時前後というかなりいい時間帯。非常に大きなチャンスだったのだが、シメナは惜しくも落選してしまったという。さすがにちょっと残念そうな表情だ。
 といっても、シメナはメイン会場周りのペーニャには出演するそうだ。フアンカが僕のことをかなり大げさに紹介してくれたせいか、シメナからデモCDをもらった。彼女の父親からは「日本で宣伝してくれ」と言われる。後で聴いてみたら、これがいい。近い将来、多くのところで彼女の歌を耳にできるかもしれない。シメナ・パウラ・ヒメネス、どうぞお見知りおきを。
 お昼は昨日と同じ場所。昨日と同じ時間に部屋に戻り、昨日と同じ時間だけ寝る……いや、それ以上に寝てしまったようだ。目を覚ますともう夜の9時半。あわてて準備をする。フアンカは今日もあわてず。時間を少し過ぎてしまったが、昨日と同じ時間に会場に入ることはできた。いちいち昨日と比較せんでもいいか。
 フォルクローレ、タンゴ、チャマメとステージが続き、長いMCが入る。こういうときは大物が出る前。そして登場したのは「チャカレラータ・サンティアゲーニャ」だった。僕が初めてチャカレーラの踊りを見たのは、このグループのビデオでだった。これで僕はチャカレーラの踊りを知った。ちなみに僕の父親はグラマッホを心の師と仰いでいる。満面の笑みでボンボを叩くフアン・カルロス・グラマッホ率いるメンバーが登場。ダンサーが登場するといきなり「爆竹」が放り込まれる。85年当時は、メンバーのある一組にしか使われなかったのに、今回は女性ダンサーの見せ場や静かな曲であるはずのサンバにまで使われているので大変です。フアンカはこういう演出はあまり好きでなさそうだが、僕は前に出てみる。記者席と客席の間はパスを見せて通らなければならないが、係の兄ちゃんたちはゆうべと同じなので、目であいさつするだけでOK。「いろいろなにおい」が立ち込めているとはいえ、まだまだ会場は平和だ。
チャカレラータ・サンティアゲーニャ La Chacarerata Santiaguen~a 先に書いたその「一組」は昔と同じ曲、同じ振り。やはりこのグループの名物のようだ。男性の方が「サパテオ(タップ)」を踏むと火薬が大量に投入され、最後はポンチョを振り回して客席に飛ばす。このステージ一番の盛り上がりを見せる。
 たっぷりと激しいチャカレーラを聴かせて、真打グラマッホ先生が出てきた。帽子をかぶり、ポンチョを肩にかけるガウチョスタイルで、円熟しきった至高の一振りを見ることができた。ごちそうさまでした。
グラマッホ Juan Carlos Gramajo 終わった後、グラマッホに接触をこころみたが、たくさんの人に囲まれてかなわず。その代わりフェルナンドの記者仲間ホセや、オラシオ・バネガスの息子たちに会って雑談。忙しいステージ裏でお茶をにごす。
 さらに続く。今度は「ロス・カラバハル」だ。現役のカラバハル一族のアーティストの多くが在籍したこのあるグループで、現在はカリ、マリオを軸に4人編成。チャカレラータもそうだが、カラバハルの多くはほとんどブエノスアイレスに住んでいる。「コスキン」はサンティアゴ出身のアーティストがこうして一度に会する、貴重な機会となりつつあるのだろう。

 (写真:ダンサーのリハ中/シメナ・パウラ・ヒメネス/グラマッホ/チャカレラータ・サンティアゲーニャ)



1月26日(月) Cosquin

ペンションの屋上から山々を望む Vista de montes 少し遅めに起床。お昼前まではペンションでボーっと過ごす。屋上に出て、高原の空気を満喫。部屋の中に戻ると、コスキン談義に花が咲いていた。誰々がこう言っていた、出演者のギャラはどうなった……、という感じで雰囲気もなんだか茶飲み話っぽいが、これもりっぱな記者同士の情報交換、かな。
 やや気になる話としては、「最近、フェスティバルの質が落ちている」というものだった。今本当にアルゼンチンでトップのアーティストが出てこない、フォルクローレのアーティストは高齢化が進んでしまい、それに対して若手の台頭が少ない、というもの。しかもその若手で、若者を中心に人気の高いソレダーやルシアーノ・ペレイラが今年は不参加。44回も続いていれば多少の波はあるだろうが、今の時期は全国各地で大きな音楽フェスティバルを同時にやっており、それはメディアで毎日流れている。フォルクローレ系のアーティストたちにとって、わざわざ「コスキン」に出なくても、という空気が少なからずあるのかもしれない。実際、フアンカをはじめ、僕が会って話したアーティストは総じて今の「コスキン」には後ろ向きだった。体制的な問題も大きいのだろう。出場者の選考基準が結構あいまいだったり、選ばれた人が、時間をオーバーしながら自分の周辺のアーティストや子どもたちをどんどんステージに上げてしまうのは、確かに批判されてもしょうがない。見ているほうは喜ぶことも多いし、まあフェスティバルなんだから多少はいいかもしれないが、コンクールから勝ちあがってきたアーティストのことを考えると、ちょっとアンバランスだ。テレビ中継に合わせたステージ転換の都合で、大物・人気アーティストの間に、若手や「渋め」のグループが「つなぎ」的に配置されているようにも思えた。この出演者の数を維持するなら、演奏条件云々をいう余裕はないかもしれないが、「コスキン」というブランドに頼り過ぎないで、もっとそれぞれのアーティストが引き立つような演出にしてほしいです。
ココ・バネガス夫妻 Coco Banegas y su esposa と、フアンカが僕に「アサドに行くぞ」と突然言った。アサドはいわゆるバーベキュー。彼の友人夫婦に誘われたという。これを逃す手はない。いざアサド。ジャッキーや、サルタの記者オスカルたちも誘って出発。会場前を通りかかると、いつものカフェテリアの前にフアンカの知っている顔が。車の中であろうと外であろうと飛んでいくのがフアンカの習性。声をかけた相手はココ・バネガス。オラシオ・バネガスの兄で、もちろん同じアーティストだ。僕も高いテンションに乗じて1枚パチリ。昼間でもとりあえず「仕事」はこなします。
 キャンプ場に到着。"El viejo rio Cosquin....."と歌われる川のほとりにあり、パーティーができるスペースも広くとってある。川の近くに下りていくと、知っている顔が。同じく招待されたビクトル・マリオ・パスだ。サンティアゴの彼の家はフアンカ家のすぐ近くにあり、何度も前を通っている。ただ、実際に会うのはこの時が初めて。マリオ・パスの制作したボンボは僕の家に1台あり、子どものころよくたたいていた。特に女性には優しそうな顔をしている。ビクトル・マリオ・パス(左) Victor Mario Paz
 網の上では巨大な肉のかたまりがすでに焼かれている。牛肉、豚肉、鶏肉のいろいろな部分を炭火で一気に焼き上げる、アルゼンチンならではの料理アサド。人もだんだん集まってきた。さっそくごちそうになる。どれもこれも香ばしくて、でも中はやわらかく焼き上がり、どれも絶品。スペインとはまた一味違ったチョリソやモルシージャ(血の入った腸詰)もいい。
 たくさん人が集まってきた。このメンバーの中にはフアンカ以外にも、以前からの知り合いがいた。彼の名はレオ。以前ちょっとだけスペインレポートに登場している。実は、彼はこの間までパルマ・デ・マヨルカに住んでいた。マル・デル・プラタ出身のギタリストで、よくパルマ市内のショッピング街でアルゼンチン・コルドバ出身の歌手セルヒオと一緒に演奏していた。ものすごくうまい。去年秋ぐらいに、「もうすぐ一度アルゼンチンに帰るのでコスキンに行きたい」と言っていたので、「じゃあ、来年の1月にコスキンで会おう」と冗談交じりに行っていたのだが、本当に会えてしまった。しかも宿泊していたのは同じペンションだったというからびっくり。昨日の夕方に感動の再開を果たし、フェスティバルから戻ったときに彼に呼ばれて朝の5時くらいまで屋上で話し込んだ。テーマはもっぱら「どうやったら日本で仕事ができるか」だったが、とりあえずお互いに前向きな話をした。彼は祖母がスペイン出身なので、二重国籍を持ち、スペインと自由に行き来できるという。アルゼンチンの状況次第では、またマヨルカに戻って活動するそうだ。
 さて、みんなで腹いっぱい食べた後、自然とギターがまわりだし、いろんな人が交互に演奏。僕もいろいろ演奏したりして、アサドな午後は過ぎていった。
アサドな人々、一番左手前がレオ Asado en camp, mucha gente y mi amigo Leoasado!asado!! asado!!assa..d.do??
 腹ごなしの昼寝(?)の後、フアンカが眼鏡の修理に行くというので同行することに。まだ行っていなかったコスキンの街中を歩いてみる。薄暗くなる午後7時前後は人が一番多い時間帯。まわりに注意しつつ、それでもフアンカが店の中にいる間に辺りを散歩して、おみやげになりそうなものを探したりする。と、あるみやげ物屋で日本語を話す客を見かける。楽器を見ていたようだが、そのまますぐに足早に去っていった。さて、誰だろう?
 フアンカの用事が終わり、戻ろうとするが、ここで「セニョール・ミズタマリに会いに行くか」と言われる。そういえば、アルゼンチンに来るときに、日本で知人からこの人のことを聞いていた。水溜さんは若いときにアルゼンチンに移住し、最近ではコスキン宮良武和さんと Con Monchito de “Chura-Chura”に来る日本人の世話役をしているという。そこで2人であいさつをしに行くことにした。とあるクリーニング店から奥に入れてもらうと、水溜さん夫妻が中庭にいた。お互いに紹介してもらう。中庭ではたくさんの人がテーブルを囲んでいた。見るとみんな日本人。実は彼らはフェスティバルに日本代表で出演した「ちゅらちゅら」の人たちだった。一番手前にいた人はついさっきみやげ物屋ですれ違っていた。宮良武和さんは沖縄出身のケーナ奏者で、なんと僕のことを知っていた。「木下さんと共演している」、そう、宮良さんたちは木下尊惇さんとつながりがあり、彼の秋田でのデビューコンサートの模様を書いた木下さんのタカタカ・ノートは僕も読んでいる。お互いの存在を知っていてコスキンで初対面というのはすごい。何かの縁なのでまた1枚。みなさんおつかれさまでした。
 また、すぐに失礼してしまったが、水溜さんから「いつでも来てくださいね」という嬉しい言葉。うーん、いい方だ。
 宿の人たちともすっかり仲良くさせてもらっていた。僕も勝手に日本語講座を開いたり、日本の歌をリクエストされて歌ったりした。フェスティバルに行くためにそうした時間がせばまってしまうのは、ちょっとだけ残念でもあるが、僕たちにとっては今日が最後の夜だ。今夜はアルゼンチンが誇る歌手の1人、レオン・ヒエコが登場する。ロックありフォルクローレあり、フアンカもアーティストとしてその音楽を高く評価しているようだ。それを目指して……まずは腹ごしらえ。フアンカの友人マリアーノとも待ち合わせ。
マリアーノと Con Mariano Saravia マリアーノは大のサッカー好き。おととい、「僕の持っているアルゼンチンリーグのユニフォームをあげるから日本のチームのユニフォームをくれないか」と頼まれる。半分冗談のつもりが、今夜彼は本当に持ってきた。「これを君に」と、タジェーレスとサン・ロレンソのユニフォームをもらってしまった。彼は日本代表と、僕の街のチームのが欲しいという。もらったとはいえ、どうしようかなと考えつつ、やはり浦和レッズかな……ともう決めにかかってしまい、勢いもあって、ついに約束してしまった。その後自分が日本に帰ったのはJリーグ開幕前だったので、欲しいユニフォームは売ってないし、まあ高いし、送るまで大変だったが、4月中に無事「着いた!」という返事をもらうことができたので、約束は果たせた。ちなみに日本代表のは2002年W杯バージョン、浦和は今期2004シーズンのです。お宝になってくれよ。
 というわけで、約束したマリアーノは上機嫌でワインを振舞ってくれた。アルゼンチンワインで特徴的なのはブドウの品種。現在マルベック種のみで作られるワインはアルゼンチンくらいだという。独特の渋みがあり、僕は好き。そして、これに合う料理といえばロクロ。サルタ地方の代表的な煮込み料理で、豆と臓物を使った家庭の味だ。プラスチックの容器に入って出てくるところが、フェスティバルの雰囲気を盛り上げてくれる。
オーレーオレオレオレー、レーオー、レーオー ole-oleoleole-leo-leo- 会場に足を入れる。12時過ぎくらいになって、そのレオン・ヒエコのステージがやってきた。メルセデス・ソーサやビクトル・エレディアらとともにアルゼンチンを代表する、その歌手の登場に会場のボルテージは一気にあがる。ウアイノやチャマメのリズムに乗ったフォルクローレ的ナンバーから、ポップス、ラップ調の曲までさまざま。全体の雰囲気をたとえると、強いて言えばエリック・クラプトンか。客席からも、サッカーで使われるような声援が飛ぶ。特にレオン・ヒエコの場合、あのメロディーで「オーレーオレオレオレー、レーオー、レーオー」と叫ぶようだ。
 90分を超えるステージになる。いつからか僕もマリアーノにもらったユニフォームを着てみんなと踊りだしていた。今朝のコスキン批判はそれはそれ、今はとりあえず楽しみましょ。
 4時過ぎ、ペンションに帰る途中、一緒に歩いていたオスカル・ウマカタの電話が鳴った。彼の担当の時間、生放送のようだ。しばらく携帯で話しながら、僕に目でサインを送ってきた。まさか、また? 突然「ここに日本から来た友人のギタリストがいる」と電話を渡され、またしてもラジオに出演。今度はサルタの放送局だ。どのようにコスキンを知ったか、僕がギターを始めたきっかけ、「ビビアーナのことは知っているか?」と、日本に来日するアルゼンチンのアーティストのことについてなどを話す。質問と答えがあまりかみ合っていないような気がしたが、最後に弱気な声で「ヘタなスペイン語でごめんなさい」と言うとパーソナリティーはかなりウケてくれたので、なんとかオチはついた。まだまだ修行が足りんな。

1月27日(火) Cosquin-Cordoba-Santiago

 コスキンを旅立つ日。朝早かったが、ジャッキーやオスカルたちもフアンカと僕を見送ってくれた。オーナーのレイナとも惜しみながらのお別れ……またいつか必ず来たいと思った。
 コルドバに戻る。ここでタクシーを拾い、フアンカの友人の家に向かう。エステラとその息子に迎えられる。エステラの夫とはコスキンで会い、ここで会うことを約束していたそうなのだが、残念ながら彼は仕事で来られず。お昼をごちそうになり、午後のバスでサンティアゴに戻ることに。
 6時間の旅を経て……、突然フアンカに起こされる。寝ていたようだが、まだターミナルではない。「降りるぞ」と言われてあわてて荷物を持って降りる。もう外は夜、落ち着いてみると見慣れた風景。バスはフアンカ家の近くを通ったようなのでフアンカが止めたらしい。僕の寝起きのあわてっぷりがよっぽど面白かったのか、この様子は後日までネタになりました。こんな感じで、コスキンへの珍道中(僕だけ?)は、ここまで。

(写真:ペンションの屋上から山々を望む/ココ・バネガス夫妻/ビクトル・マリオ・パス(左)/アサドな人々/宮良武和さんと/マリアーノと/オーレーオレオレオレー、レーオー、レーオー)



1月28日(水) Santiago


 今日はちょっと一休み、といきたいところだが、さすがルーカス先生、びしっと立て直し。チャカレーラのテーマ「ラ・ビエハ」の難しいアレンジを練習する。チャカレーラはもともと短いフレーズの繰り返しなので、楽器だけで演奏すると単調になりがち。だからコード進行に変化をつけたりして、どんどん難しくなる。ブラジル音楽やジャズの要素なども取り入れているので、けっこう大変。フォルクローレの音楽家は、古くから演奏されてきた音楽を再現するだけでなく、その時代に生きるあらゆる音楽に興味を持ち、いつも新しい要素を探しているのだと、改めて感じる。
 昼はミラネサ・デ・ポージョ(チキンカツ)をいただく。これはフライパンで焼いたもの。食後、ルーカスとパソコンのメールであれこれする。と、ルピータがゲームをやりたそうなので交代。ルーカスがどこからか仕入れてきた体験版の「マリオ」や「ソニック」をプレイするが、キーボード操作なので大変そうだ。マリオなんて、ファイアーボールもスターも出てこないし、2ステージ目はいきなり最初から空中の土管を飛び越え、1、2、3、と何とか飛び越えた先には、パックンフラワーがずらーっと並んで……難しすぎるわ! パソコン版は何かと難易度が高いようだ。しかも体験版だしね。ルーペ、ちょっとがっかり。何か製品版でいいゲームはないだろうか。
 例によって4時間も昼寝をして、フアンカ家に行く。コスキンの生中継を見ながらタジャリンのグラタンをいただく。タジャリンは平打ちのパスタで、アルゼンチンで麺といえばこれ。スペインでもポピュラーで、僕もよく食べた。時にはうどん代わりにもなる。テレビでは、コスキンでも見た若手歌手、アベル・ピントスがまたゲストで登場。コスキンではいちおしのようだ。
 ルーカスがいつものようにサッカー帰りに迎えに来てくれた。マルセラ(イニャキとマノロの母親)の家に預けたルピータも迎える。ルーカスのサッカー仲間ゴンサロを家に送ると子どもたちがお出迎え。ルーカス家に戻る途中、アイスクリーム屋に寄る。「日本のアイスも甘いのかい」と聞かれる。「甘いけど砂糖はもっと少ないんだ。日本にもいろいろな種類があって、抹茶のアイスもあるんだよ」「へえ~、メンドーサではワインのアイスもあるんだよ」「へえ~」と、平和な会話を楽しむ。中では近所の子どもたちが遊んでいる。もう夜中の2時過ぎなのにみんな元気だなあ。
 家に帰って続きを見るとペテコ・カラバハルが写っていた。ますます親父さん(カルロス・カラバハル)に似てきたなあ。しかし2時半になるとニュースに変わってしまい、最後まで見られず残念。前の歌手が引っ張りすぎたのが原因でした。

1月29日(木) Santiago

 アルゼンチンに来て最初にドルから両替したペソも、残り少なくなってきた。そこで、ファビオに頼んで銀行に連れて行ってもらった。僕が直接両替すると本人確認だとか大変だというので、ファビオが代行。その後カフェテリアのトイレの中で怪しげな引き渡し。これも安全のためです。
 翌日はグアダルーペの誕生日。僕から何かプレゼントしたいと思い、プレゼント探しに付き合ってもらう。おもちゃ屋に入る。お化粧セットやドールハウスなどがあるが、ルピータが喜びそうなのはパソコンのゲームかも知れない。実際しんどそうでも一生懸命プレイしているし……。でもファビオによると、市内にはあまりいいゲームはないという。実際、パソコンなどを扱う店は少ないし、日本の各メーカーのゲーム機も、ここで売られているのはいずれも一世代前のもの。しかも高い。と、ファビオが「マリにきいてみたら?」と提案。家族にも秘密にしたいと思ったが、ここは本人が喜ぶものを確実に選んだ方がいいかもしれない。そこで電話で相談。すると「Radrilloはどうか?」という。ラドリージョとはブロックおもちゃのシリーズ。家とか飛行機とかを組み立てるキットだ。僕も子どものころよくブロックで遊んだ。店内には何種類かあり、どれが一番いいかは分からない。なんとなく保留のまま、店を出てしまう。
 その後、市場に連れて行ってもらう。アルゼンチンの市場を訪れるのは初めて。肉類と野菜は非常に充実している。スタイルはスペインともやや近い。体育館のようなその建物の二階には地元の民芸品も売られており、楽しく過ごせる。
 おっと、結局プレゼントを仕入れずに帰ってしまった。明日どうしようか。

1月30日(金) Santiago

 ルピータ8歳の誕生日。午前中にルーカスから市内に行くといわれる。続けて「グアダルーペの誕生日プレゼントをありがとう」、あら、ファビオがしゃべっちゃったのね。結局グアダルーペ本人も一緒にプレゼントを買いに行くことになった。まあドッキリ感は減るが、欲しいものが目の前で買ってもらえるというのも悪くない。昨日入ったおもちゃ屋に行くと、お店の人も喜んでくれた。このさいルピータに選んでもらい、めでたく購入。その後、ゲーム店で、遊びやすそうなパソコンソフトも一枚購入。
 フアンカ家に行くと、ルピータ嬢、もう開けたくてしょうがないご様子。「後で(パーティーのときに)欲しい? それともいま欲しい?」と聞くと、「……いま」と恥ずかしそうに、でも即答。そこで一足先にプレゼントの贈呈式。まずは1回目のおめでとう! お昼を食べるのもそこそこにお店を広げ、マノロたちと建設開始。そのままルーカス家へ持ち込んで続いたようだ。その夜、みんなでフアンカ家へ。グアダルーペの友達もそろって大パーティー。改めて、おめでとう。
おめでとう、グアダルーペ Felicidades, Guadalupe.

1月31日(土) Santiago

 前の晩が遅くても、昼まで練習。来週は地元のフェスティバルでレフンテの演奏があり、僕も参加させてもらうことになった。夕方はフアンカ家で練習。久しぶりにみっちり練習したぞ。
ファビオと? Fabio y..?
2月1日(日) Santiago

 フアンカ家で昼食中、なにやら風船遊びが始まった。ファビオが膨らませた風船でグアダルーペとマノロが大はしゃぎ。マリアの仕事場に行く。この日は日曜日の農場の警備をしているようだ。

2月2日(月) Santiago

 レフンテと練習。フアンカの愛猫ピキジンが、自分をかまって欲しいのか、机の上に乗ってきた。サンバを弾いていると、なんとレポのキーボードを踏む。ちょうどシンセサイザーの音になっていたので、なんともいえない音世界が広がって一同大爆笑。楽しいなあ。
エル・レフンテの新アーティスト Nueva artista Piquillin


2月3日(火) Santiago

 ……ゆるゆるな生活に慣れて、うっかり書くのをなまけそうになったので今日から復活します。昨晩から降り続く雨のせいで、ルーカスのアパートの周りはほぼ冠水してしまった。ルーカス家は建物の最上階にあるが、窓の外にある同フロアの建設中のスペースは水浸し。下の住人から「雨漏りをどうにかしてくれ」ときた。そこでみんなで水の除去作業。ルーカス、外に向かって豪快に水を飛ばす。「下の車(隣人の)にかかっているよ」「いいんだ、あの車のやつは嫌いなんだ」……雨の朝の一幕でした。  
 その後、ルーカスが友人のリカルドの家に行くというのでついていく。MDとマイクを持ってくるよう頼まれたので、録音するのかな。雨の中、リカルドは暖かく迎えてくれた。持っていた楽譜を交換したりした後、リカルドのリカルド Ricardo演奏を聴かせてもらうことになった。まずはチャカレーラの「ラ・ビエハ」から。あらゆるコードを駆使して、かつ比類なきリズム感。次々とチャカレーラやエスコンディードを弾いていく。僕とルーカスでぽかんと口を開けたまま聴き入る。サンティアゴ・デル・エステロ、恐るべし。

2月4日(水) Santiago-Pintos

 今夜はレフンテの演奏。ピントスという、サンティアゴ州内の町でのイベントにゲストとして招かれているそうだ。午前中は仕上げの練習をし、準備に戻る。ここで、ルーカス一家から僕に、誕生日プレゼントにとTシャツをいただいてしまった。
 午後6時、ピントスへ。サンティアゴ州内だが240キロ、3時間の行程。レポのトラックは前に3人、あとは後ろの荷物室に乗る。あまり車の移動に強くない僕は前を希望するが、年下の宿命? ということで後ろを初体験することになった。頭をぶつけつつ乗りこみ、いざ出発。まずラ・バンダのレポの家に立ち寄った後は、平均時速120キロで走り続ける。
 ひたすらパンパを走り、到着する9時ころにはすっかり暗くなった。ピントスはサンティアゴ州の南東の端にあり、ロサリオ、ブエノスアイレスへ向かう街道筋にある。会場に入るとまだ準備中らしく、人もいない。今回は体育館のような建物の中で演奏する。音響チェック。やはりコンディションはよくない。自分のギターはマイクが入らず、まったく聴こえない。マイクが内臓されているギターでないと音を聞かせるのは難しそうだ。どうしよう。形だけで通すことになるか? 考えながら2時間ほど油を売っていると、人が集まりだし、あっという間に中はいっぱいになった。
 11時すぎに開始、まずは地元の名士をたたえる表彰式。その後、いろいろなグループの演奏が始まった。メインゲストであるフアンカ&エル・レフンテは袖で待機。と、僕たちの次に演奏予定のグループがやってきた。そこで急遽、そのグループのリーダーにお願いしてギターを借りることに。なんとか間に合った。
 3組の演奏が終わった1時ごろ、ようやくフアンカ&エル・レフンテの番になった。僕は最初、同行のイニャキと舞台の脇に座って待つ。彼の才能を見込んでカメラを預けた。4曲の演奏のあと、ステージに呼んでもらうことに。例によって「なんでここに日本人が」的視線を浴びつつ、でも暖かい拍手で迎えられた。この日着ていたのはもちろん、プレゼントのTシャツ。真ん中にはSantiago del Esteroのロゴが。
 今日はいわば初の本格的な共演。「Corazon verdugo」から「Sembremos la Chacarera」へチャカレーラ2曲、サンバ「Como alrajo..」を弾く。ここまでは練習どおり。とフアンカ、僕に「フラメンコをソロで弾け」とふってきた。もちろんこれは最初からプログラムにあったのだが、問題はギター。借り物の楽器を叩く(フラメンコギターは叩くのです)わけにはいかない。そこでルーカスのギターを「叩かせて」もらうことにした。オリジナルの「月下の門」を少し縮めて演奏。トマティートのブレリアのような終わり方で決めると、ものすごい歓声をもらってしまった。アンコールの声がかかる。こうなったら木に登るしかない。続けてもう一曲、「12月31日通り」を演奏。拍手の力は怖い。こんなにも精神状態が変わるものなのか。
 一呼吸の後、「Por Si No Vuelva」、僕が抜けて2曲、そしてアンコールは再び僕も加わって、「Hermano Kakuy(カクイ鳥)」「Desde el puente Caretero(カレテーロ橋から)」「Entre a mi pago sin golpear(ノックせずに入っておいで)」「Entre a mi Hogar(家へ入れよ)」の、サンティアゴ・カラバハル黄金メドレー4曲で一気に盛り上がった。終演、片づけを終えて戻る途中、次々に声をかけてくれたのは嬉しかった。中には「こんな外国人に会ったのは初めて」といってくれる人も。まさか日本人に直接会うのは僕が初めてだったりして。
 ガソリンスタンドにある喫茶店で休憩。静かで小さな街だが、貨物のトラックや深夜バスがたくさん通っている。こうしたドライバーの中には、先日サルタ近辺で早朝にラジオで僕の声を聞いた人もいるかもしれない。なんだか変な感じ。3時半出発。真っ暗な中、次々とトラックを追い越しながら、2時間半ほどで無事たどり着く。うーん、アルゼンチンのミュージシャンは本当にタフだ。
エル・レフンテ El Rejunte
お~つかれさまでした。 Tranquilamente,

(写真:アリシアママ、パーティー準備中/はっぴばーすでー/おめでとう/ファビオと?/エル・レフンテの新アーティスト/リカルド/エル・レフンテ/お~つかれさまでした。)



2月5日(木) Santiago

サンティアゴ名産品 Artesania de Santiago 起きたのはお昼過ぎ。このまま休んでもいいが、サンティアゴを出る日もだんだんと近づいてきた。さすがに長く寝るのがもったいない。そこで、午後はマリに頼んで、おみやげ探しに付き合ってもらうことに。マリは市内のいろいろな場所で日替わりで警備を担当しているが、今日も朝と夜に仕事がある。仕事前の夕方にハイヤーで市街地へ向かう。
 まずはマリの今夜の勤務地へ。保険会社のような大きなオフィスだ。ここで交代予定の警備員にあいさつ。彼が、自分の同僚と一緒に現れた男にびっくりしたのはいうまでもない。制服を置いてから、おみやげ探し。市内の観光案内所で情報をもらっていると、室内の企画展示が目にとまる。地元の工芸家によるものだ。せっかくなので分けてもらうことに。
 1時間ほどでだいたい買い物も終わり、喫茶店で休憩。前から気になっていた「Lomito」というものを食べてみることにした。ロミートとは、いわばステーキサンド。牛のロース(ロモ)肉をはさんでおり、フルサイズになると、さらにハム、チーズ、目玉焼き、トマト、レタスが直径20センチもあるパンにはさまれて登場。すげえ。もちろん、マリと半分に分け…るのではなく、1セットずついただく。
 その後、マリの仕事場でルーカスの迎えを待つ。マリはというと、制服に着替えてベルトを巻く。ベルトには警棒や手錠だけではなく、しっかりと銃もおさまっていた。でもマリはいたって笑顔。彼女の巡回中は僕は椅子を2つ並べてのんびりとサッカー観戦。
 1時間ほどして、ドアの向こうから車のクラクションが聞こえてきた。来たか、と思って2人で出て行く。ルーカス車にはフアンカとマルティンも乗っていた。どうやらどこかに向かうらしい。
 マリと別れ、車で移動。降りたところはどこかの店、ではなさそうだ。誰かの家かな? と、後ろからギターが。しかも僕のも入っている。今日はレポの友人のお姉さんの誕生日で、そこで弾くことになったそうだ。入ると、もうみんなできあがっている。レポ様のお出迎えを受け、まずは乾杯。そして演奏。おめでとう!

2月6日(金) Santiago-Loreto

 今日はもう1つ、フェスティバルに参加する。州都から60km離れたロレートへ向かう。「フェスティバル・デ・ロスケテ」は、サンティアゴでも古くから続いているイベントだそうだ。
 実は、4日のピントスとこのロレートでは、ボンボとボーカルのピルーロが不参加。おとといは打楽器なしでの演奏だったが、やはり欲しい、ということで、ボンボ奏者のアリエルが参加することになった。
 1時間ほどで到着。例によって関係者口からステージ裏に向かう。今夜は比較的出番が早そうだ。すぐに準備をする。合図をもらい、みんなでステージのセッティングに入る。
 しかしここで異変が。突然「撤収」の声がかかる。わけが分からないまま戻ろうとすると、ルーカスが「他のアーティストが先にやるそうだ」……フアンカ激怒。ステージの上で大声で「家に帰るぞ!」と言うのをなだめ、いったん後ろに下がる。どうやら主催者が順番を間違えたらしい。いや、それも分からない。なぜなら、その「他のアーティスト」は「ラリー・バリオヌエボ」という、若者に人気のアーティストだったからだ。フアンカと主催者とのやりとりを見ていると、とにかく彼らが到着しだい優先的に演奏させる予定だった、という可能性もある。だとしたらひどい話だが、人気アーティストとなれば、そのラリーに対する配慮だけでなく、控室がない(すべて車で準備しなければならない)会場で、ファンの必要以上の接近を防ぐための措置ということも考えられる。
 フアンカはなかなかおさまらない。もし単純ミスだとしても、一度ステージに上がった者が「あんたじゃない」と言われて下がるのは非常に屈辱的なこと。僕だっていやだ。しかもラリーの音楽家としての成長にフアンカは大きな力を与えてきた。ラリーは一時期「ロス・カラバハル」のメンバーだったこともある。フアンカの怒りは若いレフンテのメンバーを思いやってのことだったのかも知れない。若い音楽家を育てることもフアンカのライフワークなのだから。
 気まずい雰囲気の中、ラリーのバンドのベーシストである、オラシオ・バネガスの息子もやってきてフアンカを落ち着かせる。
 そうこうしているうちにラリーの演奏が始まった。とりあえずみんなで車で待機。フアンカは実は昨年、心臓の手術をしており、胸にはペースメーカーが装着してある。興奮しつづけるのはとても危険。本人も分かっているのでようやく落ち着きを取り戻す。ふぅー、大変だった。
 今回も結局、長い待ちになる。1時間半の演奏の間には何度か音響がダウン。あまりお客をしらけさせると、後々のステージにも影響が出てしまうな。「これがアルゼンチンだ」とルーカスが言うが、なんだかなあ。でもそれはそれで、ラリーたちのステージは非常に楽しく、盛り上がった。当然その中に、フアンカが書いた曲もあった。
 ようやく準備。やはり人気アーティストの直後というのは「割り」を食うもので、お客もサーっと減ってしまった。フアンカも十分に「人気アーティスト」のはずだが、今日の場合はおそらく支持層が違うと思われます……。それでも気を取り直し、おとといと同じプログラムを熱演。後半ではお客も戻ってきた。最後は「家へ入れよ」でフィナーレ。いやあ、「家へ帰れよ」にならなくて本当によかった。
 サンティアゴ・デル・エステロで僕が参加した3つのフェスティバル、それぞれにいろいろ(すぎる?)ドラマがあった。これらの経験は、真夏の夜の暑さとともに、きっと忘れることはないだろう。

フアンカ Juanca
アリエル Arielレポ Repo
チエイ Chieiルーカス Lucasマルティン Martin


2月7日(土) Santiago

マリオ・パスのアサド Asado de Victor もうすぐサンティアゴともお別れ。ブエノスアイレスまではバスで行くことにしたが、ターミナルにチケットを買いに行く足もなんとなく重い。
 別の意味で、というかいい意味で重かったのは本日の食事。昼はルーカス家とフアンカ家の中間にあるアサドの店に買い物に行く。サンティアゴの道路わきには至る所に「アサド」の看板があって、広い網の上で豪快に肉などを焼き、これらをテイクアウトできる。今日はチキンのアサドに、石釜で焼き上げたエンパナーダ。これが最高にうまい。ベタな表現で言えば、外はサクサク、中はジューシー。あつあつをいただきました。
 そして夜は、牛のアサド。明日サンティアゴを発ってしまう僕のために開いてくれた。ビクトル・マリオ・パスが焼いてくれたいろいろな種類のアサドをごちそうになった後は、フアンカ家から僕に日本へのおみやげをプレゼントしてくれた。僕もお礼にと、持ってきていた録音用マイクとギター用のチューナーをフアンカ&エル・レフンテに。
 後はいつにもましてギターや歌がまわりだす。フィエスタは3時を越えて続くのであった。
フアンカ家で En la casa de Juanca
歌いましょう! Vamos a cantar!

2月8日(日) Santiago-Buenos Aires

 お昼をフアンカの家でいただいた後、子どもたちに折り鶴を教える。僕は小学生のころよく折り紙で遊んでいたが、今はもう折り鶴しかできなくなってしまった。次回来たときに遊べるように、日本へ帰ったら少し覚えなおそうかな。
 なんとか荷物を積み、バスターミナルへと向かう。約1ヵ月を過ごしたサンティアゴとも、最初のお別れとなる。みんなが見送りに来てくれた。「チエイ、またいつでもおいで、君の家はいつもここにある」。ありがとう、パパ・フアンカ、そしてサンティアゴのファミリア。ここでは「アディオス」という言葉は使わない。日本で有名なこのスペイン語は、実はスペイン語圏、特に南米ではとても重い言葉で「もう二度とあえない」的なニュアンスを含んでいる。そこで「Hasta~(また~ね)」という形で言う。今回は「Hasta la vista(また会う日まで)」「Hasta pronto(また近いうちに)」、いや、もっと軽い「Chao」でいいよ。
 ……あまり長く書きたくないので、このへんで出発。久しぶりに泣きそうになりながら、バスの外に手を振る。本当に、すぐにでもまた来たい、僕にとってのサンティアゴ・デル・エステロ、とりあえず、「Hasta luego」、また後ほど…。

 (とりあえず「完」。)

(写真:サンティアゴ名産品/フアンカ&エル・レフンテ…フアンカ、アリエル、レポ、チエイ、ルーカス、マルティン/
マリオ・パスのアサド/フアンカ家で/歌いましょう!)





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