memory 0  ---2003.11.16---

 雑記です。ここには、日頃思っていることや過去の出来事、あるいは本日の日記など、思いつくことをざっくばらんに書いていきたいと思います。



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---2003.11.16--- 

初舞台と『3人』のギター

 ホームページがリニューアルすると、新しい気分になるのと同時に、なんだか初心に帰ったような気持ちになる。「初心」というと、一見逆戻りのように見えるが、今までの蓄積がなくなるわけではない。むしろ、最初に近いところに視点を置くことで、それまで気づかなかったものが目の前にぽんと現れていたりする。これも先に進むための立派な「新しい段階」だと思う。そう感じたとき、ふと自分の「初舞台」というのを考えたくなった。
 僕は今までに何度か「初舞台」を経験しているが、それこそ僕が初めて人前で演奏したのは、3歳のときだった。両親の古い友人である大内慎二さんの結婚式で、父と母、福岡稔さん、福岡麻由美さんと一緒に、ボリビア東部地方のフォルクローレの名曲「恋人サンタクルス」「サオの麦わら帽子」を演奏した。4人がギターを弾き、僕はというと、タテノリしながらマラカスをふって、スペイン語(?)で歌っていたという。さすがに覚えていないことも多いが、聞くところによれば、かなり本気でシャカシャカしていたらしい。
 大内さんは福島・二本松の、四代目岳温泉伝統こけし工人としても著名である。学生時代にフォルクローレのサークルを立ち上げ、その後、中出敏彦氏のもとでギター製作の修行を積んだ。父とのよしみで、家には何本かいただいた大内さんの試作品がある。僕はそのギターを弾き、ギタリストとしての「初舞台」も踏んだ。大内さんには中学卒業に合わせて新しいギターを作ってもらっている。力強くもやさしい音色。この『大内慎二(1994製)』ギターとは、1999年以降、木下尊惇さんとの演奏でいつも一緒だった。大内さんは現在、こけし作りに多忙なご様子だが、そのギターは、僕にとっていつまでも大きな存在であることに変わりはない。
 フラメンコでの初めての大舞台は2002年の新人公演。このときに弾いたギターは、『マヌエル・レジェス(1982製・白)』というスペイン・コルドバの製作家のもの。新宿のプリメラギター社で試奏させてもらってからすっかり惚れ込んでしまった。1ヵ月悩んだ末、思い切って購入。一度聴いたら忘れないほどの独特な音色。聴いたときに感じたように自分でそういう音を出せているかは分からないが、とにかく、このギターとはまさに、ひとつの出会いであったと思う。2000年にスペインを旅行したときはコルドバのマヌエル・レジェスの工房におしかけてしまったほど。
 さて、2002年にスペインに行くときは、音楽の「旅」であるにもかかわらず、どのギターも持ち出さなかった。こんなギターを持ち歩くのはちょっと……という気持ちに負けてしまったし、とりあえず身軽になりたかった、という気もあった。しかし、一週間もするともう寂しくなってしまった。どうしようもありません。
 そこで、最初の滞在地、マドリッドでギターを購入することにした。ちょっと持ち運びに、と思ったのが、また手を出してしまいました。その名は『ホセ・ラミレス(2002製・黒)』。クラシックギターではスペイン有数の規模を誇る、いわゆる「メジャー」なブランド。ちなみに、ホセ・ラミレスは代替わりが早く、現在は、急逝したW世の妹、アマリア・ラミレスが受け継いでいる。かつてはフラメンコタイプも人気があり、サビーカスやマノロ・サンルーカルが愛奏してきた楽器としても知られていた。ただ、僕がスペインに行く前後には「評価が落ちた」「フラメンコタイプはあまり弾かれない」など、日本への入荷が減ったことも加わって、マイナスイメージが多かった。
 ところがどっこい、ラミレスの店で、いわゆる「白」(ボディが薄く、よりフラメンコらしい音がするタイプ)を弾いた後に「黒」(ボディが厚く、よりクラシックに近いタイプ)はないか? と聞いたところ、試作品ならある、と出してもらったギターを弾いて、ぐっときてしまい……ベンハミン・アビチュエラとともに、スペインでの「初舞台」を踏んだのはこのギターでした。前の2人のギターとはまた違う、キラキラとしながら、どこか懐かしさを感じさせてくれる音を持っている。
左から『大内慎二(1994)』『マヌエル・レジェス(1982)』『ホセ・ラミレス(2002)』……と、『はなまる(1986)』 こうして、最初の視点に近いところに戻ってくると、自分の音楽に関する「初舞台」の場面では、『3人』の製作者によって生み出された、あまりに素晴らしいギターたちに恵まれているという、当たり前のことに気づく。こんなことでいいのかちえいくん、と説教しそうになるが、それだけ、僕には申し分ない相棒がいるということだ。まるで「ロドス島」にいるような気分になる。でも彼(彼女?)らはあらゆる場面において、僕を支えてくれた。これなら本当にはばたけるかもしれないなんて思ったりして。
 高価なギターを揃えたことで、自分の車を持つことを当面あきらめなければならないなんて、たいした問題ではない。ここにいるのは、僕がいつもご一緒させていただくアーティストたちと同じように、かけがえのない『3人』のギターなのである。

写真は、左から『大内慎二(1994)』『マヌエル・レジェス(1982)』『ホセ・ラミレス(2002)』……と、『はなまる(1986)』。
僕の場合、幸運にも3台のギター、特に『マヌエル・レジェス』『ホセ・ラミレス』に関しては、日本の市場で考えれば破格の値段で手に入れることができました。本当にありがたいことです。




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---2003.12.1---

通信大作戦?

 人が電話をかけたりインターネットに接続するのは、いまさら言う必要もないほどに当たり前の営みになっている。日本で普通に生活する限り、1回の電話やネット接続に面倒な思いをすることは、ほぼないだろう。逆に、携帯電話がないときに「公衆電話」を探すのに苦労することぐらいか……。
 したがって海外に行くときは、国際電話など、どうやって通信を確保するか、ということがひとつのテーマになると思う。1ヶ月を超える滞在になればなおさらのこと、スペインから自分のホームページにレポートを送るなんて決めてしまった僕にとっては、かねてからの不安材料だった。とりあえずパソコンの買い替えに合わせて、外国でも持ち運んで使えそうなB5サイズ(12.1インチ)のノートや変圧アダプタなどを仕入れて準備はOK。
左:電源の変換プラグ、中:変圧アダプタ(220V→100V・100W)、右:モデムセーバー 最初のレポートを送ったのはコルドバからだった。インターネットカフェでは、国際電話がかけられるようなブースがあり、電話線(モジュラーケーブル)が簡単にはずせるような構造になっていれば、接続がしやすい。ちなみにケーブルの接続部分は日本と同じアメリカタイプなので、日本の電話線がそのまま使える。ただ、電流の流れ方が異なる場合があるので、パソコンを守るための「モデムセーバー」は必要。もはや懐かしい感のある「ダイヤルアップ接続」でアクセスする。……試行錯誤の末、なんとか成功。メールアドレスもそのまま使えるので、自分のパソコンで送受信ができる。ちなみに電話料金は1分12セント(約15円)ほど。直接日本に国際電話をかけても1分15セント(約20円)ほどでかけられるので重宝する。こうした電話ブースはどの街でもあり、パルマでは毎週のように通った。ここでは主に、出稼ぎや移民でスペインに来た人が祖国にかけるために利用しているようだ。そんな人たちが電話をかけているその隣で、自分のパソコンでレポートを送っていることには、ちょっと考えてしまうものがある。
左:スペインで使用した携帯電話。右:現在日本で使用中の携帯電話 さて、もう1つは携帯電話。日本でも海外用の携帯を契約できるが、通話料が高く、電話を受けるのにも料金がかかるので、スペインで買うことにした。ヨーロッパの携帯電話はほぼプリペイド式。通話する分だけを前払いして使う。いろんな店でチャージができるので便利。基本料がかからないのは助かるし、もしなくした場合でもリスクが少ない。メールはショートメール(SMS)が基本で、電話会社に関わらず、相手の電話番号に直接メールが打てる。電波はGSM方式をEU内で統一採用しており、ポルトガルやフランスに移動してもそのまま使うことができる。日本へ国際電話をかけても、日本からかけるよりはもちろん、国際電話会社のサービスを利用するより安いことが多い。
 その代わり、電話機は高い。日本の場合、契約数を増やすために新規で買う機種を無料にしたりして通話料で回収するパターンをとっているが、プリペイドでは、通話料で回収できる保証がないので、特に新モデルは安くなりにくい。スペインでも去年あたりから、折りたたみ・カラー液晶・カメラつきの携帯が出回っていたが、簡単に手が出る値段ではない。さらに、通話料もまだ安くはないので、チャージせず、ほとんど「着信専門」で使う人も多いようだ。
 それでも、スペインではどの街でも携帯を手にする人々の姿が目立つ。何年か後には、ずらーっと並んで一斉に携帯の画面とにらめっこする風景が見られるかもしれない。すでに、日本でなくとも、着信音はいつでもどこでも聴くことができてしまう。僕は電話の着信音が苦手だが、これも仕方ないか。電源を切っているわけにはいかないし、マナーモードにしてないところに電話がかかってしまうと、たとえそれが100人に1人であっても目立ってしまうからどうしようもない。それに、かかってきているのが分かっていながら取らない、というのはけっこうエネルギーが要ることで、僕も電車やバスの中で着信するといつも迷う。せめて相手に移動中であることがわかる「トレインモード」なんていうものがあればいいんだけどね。

(写真上)日本で買った電化製品を外国で使うための「三種の神器」。左は電源の変換プラグ、中は変圧アダプタ(220V→100V・100W)、右はモデムセーバー。(写真下)左はスペインで使用した携帯電話。右は現在日本で使用中の携帯電話。ともに同じ電話会社で契約したもの。右の機種の方が「安く」手に入りました。



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  ---2003.12.27---

クリスマス、そしてまた……

 もうすぐ2003年も過ぎようとしている。クリスマスは12月25日だが、日本の場合、どちらかというと本番はイブの24日で、25日はもう正月のために衣替えする日という方が当てはまるかもしれない。クリスマスツリーから門松へ。毎年恒例のその変わりっぷりの早さには恐れ入ってしまう。ただ、おめでたいという点、また「色」という点……赤・白・緑・金……でも共通しているし、それほど違和感もない。この順応性と転換力はむしろ特筆すべきものだろう。でも何より大事なのは、その時期、その時期に、そこに生きる人々の中でどんなことがあったか、ということだと思う。

2002.12.24 ベンハミン宅にて さて、昨年(2002年)のクリスマスは、僕はマヨルカで過ごした。スペインでもいわゆる商業的なクリスマスはあるし、現代的なイベントも数多くおこなわれている。でも、日本の正月に古くからの行事や慣習がなされているように、カトリック教国のスペインでも、伝統的なクリスマスの過ごし方の習慣がある。クリスマスはスペイン語で「Navidad(ナビダー)」というが、12月はほぼ1ヵ月、ナビダーの期間に当たる。
 24日や25日は家族で過ごすのが基本で、イブの夜には親しい人を家に招き、パーティーを行う。パンとスープを前に神への感謝をささげる。恋人と過ごす場合にも、どちらかの、あるいは両方の家族と一緒に、というパターンが多いようだ。もちろん都市部では若者が街に繰り出して一晩中遊ぶこともあるだろう。
 その夜、僕は嬉しいことにベンハミンの家に招待された。いろいろあってパーティーは夜の11時過ぎから。ベンハミンの一族の屋号であるアビチュエラは「豆」を意味する。ガルバンゾ豆のスープからはじまり、クリスマスならではの大きな料理ときれいな飾りのついた焼き菓子をごちそうになった。僕もささやかな恩返しのつもりで、家族全員にクリスマスプレゼントを用意。と、1時くらいになると、それぞれの家で食事を終えた親戚や友人たちがベンハミンの家にぞくぞくと集まってきた。ギターを手にみんなでクリスマスソン2002.12.25 マノロ宅にてグ(スペイン語でビジャンシーコという)やフラメンコを歌い、イブの夜は更けていった。
 25日はスペインでは祝日。飲食店以外は開いている店もほとんどない。多くの教会では終日ミサが開かれ、テレビでもカテドラルでのミサが生中継されていた。その夜は、当時の宿泊地「コロン」で働いているマノロの家に連れて行ってもらった。そこでも登場したのはギター。以前、使っていなかった彼の古いギターに弦をはってあげたら、喜んで弾いてくれていた。自慢ののどを披露。
 こうした思い出を胸に、今年のクリスマスは、東京で、初めて4夜連続で演奏した。23日には手島れいさんの語る詩とのコラボレーションで、ロルカの詩の世界にギターで参加した。またホテルで長時間ソロ演奏をするという経験も初めてだったが、これもまた、とても思い出深いものであった。かつてサンタクロースを夢見る少年であったように、その年のクリスマスに起こることに身をゆだねてみると、毎年本当にいろいろあるんだな、そして毎年つながっているんだな、と楽しい気持ちになれるのだった。

 写真上…2002.12.24 ベンハミン宅にて/下…2002.12.25 マノロ宅にて



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  ---2004.3.14---

「実は初めての……」

 先日の「カフェ・ニーシュ」、そして「キイトス・カフェ」でのライブ、実はこの2つのライブはそれぞれに、初めての要素がふんだんに盛り込まれたライブだった。

 2004年2月21日の「カフェ・ニーシュ」でのライブは、初めて1人で「進行」するライブとなった。これは、アマチュア時代を入れると17年くらい人前で演奏してきた僕にとって、ありそうでなかったこと。ユニットを組んで演奏をする際には、ほとんどライブ中に話すこともなかったし、ソロで弾く場合にもMCなし、ということが多かった。あるいは自分の中で「演奏中はしゃべらないキャラ(?)」を決めこんでいたので、それですんでしまったという面もある。しかし、2部構成・2時間フルサイズでのライブを黙って1人で弾く、というわけにはいかない。さらに今回と「キイトス」の2つのライブは、スペインとアルゼンチンへの「旅」について、ひとつの総括的な意味をこめたライブともいえる。というわけで、自分にとってこの上ない刺激的な経験となった。
 1部をスペイン、2部をアルゼンチンに大きく分けて、演奏の間に曲の説明とこれまでの旅を少しずつたどってみることに。僕の目の前に広がるのは、演奏だけするのとはまったく違う世界。しかし聴いてくれる人にとっては、1つのライブの中で演奏もトークも大切な要素。「しゃべり」が人気のミュージシャンは僕の周りだけでもたくさんいる。そしてなんとかライブを終え……びっしょりの汗は演奏でのものかトークでのものかよく分からないが、終わったあと、「ちえいくんのキャラクターが出ててよかった」と言っていただいて、なんだかとても嬉しかった。かみすぎには注意。でもとりあえず、その時の自分が自然に出てくれればいいのかな。

 3月7日と8日の両日、牛込神楽坂の「キイトス・カフェ」で、初めて自分の名前を冠したライブをおこなった。この日は、いつも「ビブラビ・トリオ」として演奏しているチェロの星衛さん、パーカッションの伊藤アツ志さんと一緒。このお2人、演奏、トークとも申し分なし。あとは僕しだい。このあたりは平日の方が人の多い街なので、日曜、月曜という、音楽イベントとしてはちょっと変則的な日程を組んでみたが、結果としては、両日とも満員の方に来ていただいた。どうもありがとうございます。
 プログラムは「スパニッシュ・カレント」と題して、1部をスペイン、2部をアルゼンチンに分け、さらにこの日は、この3人のためにアレンジした曲や僕のオリジナル曲を演奏した。ちょっと意味づけをすれば、スペインとアルゼンチンの関係は、それこそ「大航海時代」……すなわち「植民地時代」のころからあり、移民や混血を通じて、その音楽にもお互いに大きな影響を与えてきたといわれている。この点はアメリカ大陸全体にもいえることだと思うし、今も、それぞれの地で発展した音楽がまた新しい形で自由に行き来している。僕がこうして日本で演奏させてもらえるのは、そういう流れを子どものころからメディアを通じて感じるころができたからだし、これを聴いて実際にスペインやアルゼンチンに行くきっかけを与えてくれたからだ。
 さて、ライブは、僕が住んでいたマヨルカをテーマにした曲から始まり、ギターのソロ、パーカッション、チェロとのかけあいと続く。ときどきやってくる即興もスリリングで、3人で弾くのはいつも楽しい。僕は人と一緒に演奏するのが好きだが、特にこのメンバーでやると、それぞれがより好きなように演奏してくれるので、いい意味での緊張感がある。この日はマイクなしの完全生音。トークもマイクなしなので、「守られる」ものはない。やはりどうも、しゃべりとなると演奏とは逆の方向に緊張してしまうが、伊藤さんがいい感じでフォローしてくれるので助かる。もっとお客さんと会話するような感じでできるとベストかも。アンコールでは3人で入れ代わりで盛り上がり、ライブ終了。
 ひとまず、自分の「旅」の節目となる今回の演奏を通して、何か、これまで自分の気づかなかった部分を感じることができたような気がする。本当はいまさら「初々しい」なんて言えないけれど、ひとつひとつでございます。今後の活動にも大きなエネルギーをもらった。さあこれからどんどん作らないと。



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---2004.5.31---

鴎游舎にて


 四日市から湯の山温泉に向かうところに広がる静かな田園地帯、三重県菰野町にある「鴎游舎(おうゆうしゃ)」で5月16日、コンサートを開いていただいた。
 実はこの鴎游舎、訪れるのは今回で5回目となる。オーナーの重盛正子さんとは、チェロの星さんの紹介で、東京でお会いしたのが始まりだったのだが、2003年1月と3月(ちょうどスペインから帰ってきている間)に、いずれもAZMAさんたちに同行してライブに飛び入り参加、その年の冬にもおじゃましている。なぜこの短い間に何度も埼玉から三重に足を運ぶのだろうか? と自分に問いかけてみるが、別に理由を求める必要はない。それほどに、この「鴎游舎」は僕にとって魅力的な空間である。
 ここには、重盛さんを慕って、多くの若者がいつも出入りしている。正子さんが美術や音楽の指導をされてきた縁もあり、彼らの「たどり方」は実にさまざま。僕はここの人たちとお話をするたびに大きな刺激を受けている。正子さんの子どもたちは僕と同年代で、やはり芸術の道を志している。次女の光子さんはブルガリアで声楽を学び、末っ子の守道さんは若くして名古屋市内で個展を開くほど。以前からぜひここ鴎游舎では自分のライブをやりたいと思っていた。ちなみにAZMAでの2度のライブの模様は、AZMAさんとスティング宮本さんのホームページにそれぞれレポートが載っているので、「ギターワールド」リンクより参照してみてください。
 さて、今回は3月の「キイトス・カフェ」でのライブでも一緒だった「ビブラビ・トリオ」こと星さん、伊藤さんとの3人での演奏だった。準備のため僕だけ前日に現地入りすることに。鴎游舎ホームコンサートは月に一度、重盛さんのお宅で行われている。また毎月、蔵を利用した、多くのアーティストによる個展も開かれている。もちろんどちらも無料で開放されており、地元の人々の重要な文化拠点といえる。
 ただ、大変なのはその準備。住居を使用してのコンサート、このセッティングは自分たちでしなければならない。重盛ファミリーの料理長をつとめるけんちゃんに力仕事を頼んだり、深夜なのにプログラムの制作をアーティストのMISAさんにお願いしたりして、とても助けられた。なんとかステージのセッティングだけは済ませ、寝る…わけにはいかんのです。星さんも伊藤さんも前後の日程が詰まっているので、到着したのはなんと朝の5時前。強い雨が降り出す中、なんとか2人を迎え、そのまま2人にはふとんに直行してもらい、とりあえずひと安心。自分が仕切るライブは、時には迷惑をかけたり、協力をもらったり、本当に大変でございます。
 翌朝、というかその数時間後、雨戸はずしなどの力作業は開演の3時間前には終わらせ、演奏準備に入る。朝まで続いた雨のため、室内はすごい湿気。しかし、日本の伝統的な建築であるこの建物の中は、雨が降ると演奏のためのコンディションとしては厳しくなるが、それとは逆の、なんともいえないある種の心地よさもある。緑豊かな鈴鹿山脈のふもとにあって、気候と建物の相性の良さを感じた。
 午後2時に開演。自分のオリジナル曲からスタート。3月の「キイトス」でのライブに近い構成だが、演奏を重ねるごとに違う色が出てくるのがこのトリオの面白いところ。MCも伊藤さんにツッコミを入れてもらいつつなんとかこなし、3人それぞれの持ち味をかなり出すことができた。2時間に及ぶ、たたみの上でのコンサートだったが、多くの方に最後まで聴いていただくことができて本当に嬉しかった。
 あとはお楽しみ。温泉あり、宴会ありと、至福の時を過ごし、菰野の夜は更けていきましたとさ。



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  ---2004.6.26---

酒と米とタンゴとサンティアゴ

 一見あまり縁のなさそうなこのタイトルの組み合わせ。しかし、この4つの要素をいっぺんに満たしているところがある。そこは新潟。
 なぜこれほどアルゼンチンタンゴやフォルクローレのファンが多いのか。その土壌について大きな役割を担っているのが、「セキヤクラブ」主宰・瀬賀倫夫さんである。僕のアルゼンチンレポートにもたびたび登場している瀬賀さんは、1989年にアルゼンチンのコスキンフェスティバルに日本代表で出演した際に、サンティアゴ・デル・エステロを訪れ、フアン・カルロス・カラバハルに出会って…(以下アルゼンチンレポート参照)。というわけで、新潟ではフアンカ&エル・レフンテの公演のほか、ロス・インディオス・タクナウなどアルゼンチンの有名アーティストを次々に招聘している。僕も12年ほど前に「フーマ」で新潟市内で演奏したほか、何度か瀬賀さん主催のイベントにも足を運んでいる。そして僕がアルゼンチンに行く際にはとてもお世話になった。その縁もあって、今年の6月5日、魚沼・津南で開催された「津南タンゴフェスティバル」に呼んでいただいた。
 行きの電車で、メインゲストであるバンドネオン奏者の小川紀美代さん、バイオリニスト小泉博一さん、ピアニスト須藤信一郎さんのトリオ、そしてダンサーのジョルジュ高橋&リタさんと合流し、越後湯沢に到着。バスは湯沢・石打から西に入り、山を越える。上がったところには田園地帯が広がって美しい。ここが魚沼か。確かにここならいい米が取れそうだ。
 着いた場所は、あの「グリーンピア」。昨今の(最初からそうか)年金問題で何かと言われるこの施設、でも出演者にとってはまずそこでの演奏を成功させることが大事なので、僕は何も言いません…とにかく広いなあ。山1つ分くらいありそうだ。
 会場は結婚式などにも使われる広い多目的ホール。僕は第1部の方で15分ほど時間をもらってソロを弾き、第2部の方でも少し参加する予定。セッティングを済ませて本番を待つ。
 午後6時すぎにスタート。ディナーショーには100人以上のお客がみえていた。まずは瀬賀さんによる軽妙なMCに続いてマリア&セニョーレスのステージから。ラテンのスタンダード曲をスペイン出身のマリアさんが歌い、畠山さんのギターがうなる。そしてロス・ワイラスのステージ。新潟でも屈指のキャリアを持つフォルクローレ・グループ。ケーナを吹く中村さんは、普段は酒造で働いており、そこで造られる「緑川」の味わいは絶品だ。続いて、僕が呼ばれた。せっかく「タンゴフェスティバル」ということなので、タンゴを弾こうと考えるが、瀬賀さんからも「好きなように」と言ってもらったこともあり、ここはオリジナル2曲に切り替えて演奏した。
 少し休憩をおいて第2部、小川さんのトリオによる演奏が始まった。そしてダンスが入る。盛り上がってきたところで、瀬賀さんと僕、瀬賀さんの弟子の佐藤貴和さんが飛び入り。小川さんは昨年コスキンに出た際に、瀬賀さんたちとサンティアゴを訪れている。そこでみんなでチャカレーラとサンバを演奏。その後はテーブル席に座らせてもらってタンゴのショーを堪能。楽しいディナータイムが過ぎていった。
 場所を移動しての2次会では、大いにお酒がまわっていく。米どころ新潟では、日本酒の味も申し分なし。ただ瀬賀さんを筆頭に、よく消費されているのはビールのようですが…。市場では今はとかく焼酎がもてはやされて、特に関東では日本酒の販売が減ってしまっているが、新潟で飲むならやはり日本酒でしょう。みんなうまいんですから。焼酎のプレミア問題と同じく、有名だからいい、ってもんじゃありません。でも、ここはさすがに新潟の日本酒を知り尽くしている瀬賀さん、恒例のMCで、某・有名な銘柄を「料理酒」と言い切ってしまうところは、えらい。
 夜は露天風呂で1時間半も話したりした上、僕の泊まる予定の部屋は3次会の会場…。新潟の、いや、少なくとも今回の参加者のみなさん、恐るべしです。




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  ---2004.9.28---

「あれ、もう1年?」

 このコーナーも3ヶ月ぶりの更新。日記にすると3日坊主になりそうなので不定期にしてみたんだけど……すみません。
 気がつけば、スペインから帰ってもうすぐ1年になる。2年前、「スペインレポート0」をホームページで書いて行った先での生活の期間と同じ時間が、もう過ぎようとしている。
 さて、この1年どうだったかを総括する自信はないのでとりあえず後回しにして、この10月、11月という時期は、それなりに積み重ねているかもしれない僕の音楽人生の中で、数多くの出来事があった。まず、人前で初めてギターを弾いたのはちょうど15年前の10月だし、ギターを生業とすることになるきっかけ、木下尊惇さんとの共演が決まったのも6年前のこの時期。フラメンコのレッスンを受け始めたのも、ベンハミン・アビチュエラをはじめ、スペインの多くの友人との出会いはもちろん、アルゼンチン行きの大きな動機、フアンカと東京で初めて会ったのも秋だった。さかのぼれば、僕が7歳のとき、最大のあこがれだったボリビアのグループ「ロス・カルカス」に会えて、本人たちの前で彼らの曲を演奏したのも秋。こうくるといよいよ「ん、オレの季節?」といいたくなるところだけど、こうしたイベントに出会うたびに、自分が音楽で生きていくことの大変さ、難しさと向き合わなければならないのも事実(そう感じるようになったのはごく最近だけど)。スペインから帰国してからこの1年を振り返るなら、それはそうした大変さ、今後予想される数々の苦労に対する不安と、それを振り払うための僕にとっての方法は、やっぱり音楽なのかな? という思いを強くした期間でもあった。音楽を生業とするのは、生活するという意味では「賢い」選択肢ではないかもしれないけれど、それでも、ライブが終わって一杯飲んでしまうと、「ああもう音楽やめられないなあ」というシンプルな喜びで、意外ともってしまうんですね。困ったなあ。
 去年の9月末は、僕はグラナダを旅していた。スペインレポートはヘレスの秋祭りで終わってしまっているが、その後5日間ほど、特に何を考えるでもなく、この街をぶらぶらしていた。マヨルカでお世話になっているベンハミンやマノロも、このグラナダ出身。イスラム文化の影響を受けているアンダルシアの中でも、グラナダでは特にそれが色濃く残っている。実際、現在もアラブ系の人々が多く住み、丘を登ったアルバイシン、さらにその上のサクロモンテ地区にはヒターノたちが住んでいる。ベンハミンの一族、アビチュエラが生きてきた土地だ。ここではまた、ヘレスで出会った日本人の留学生の人たちを頼って、食事に誘ってもらったり、一緒に闘牛を見たり、サクロモンテの洞窟内のタブラオを案内してもらったりと、素晴らしい思い出ができた。
 もし、僕にとってのスペインでの最初の縁がグラナダだったら、今の段階でもかなり違った歩き方をしていたかもしれない。でも、マヨルカで過ごした日々があってこその今の僕だし、それはそれで最高のたどり方ができていると信じるしかないでしょう。音楽的原点の1つであるアルゼンチン、サンティアゴ・デル・エステロに行けたのも、東京で初めてのソロライブができたのも、きっと偶然を重ねた先の必然なのだから。
 これから音楽に関して、何があっても、どこに行こうとも、転がっていれば必ず新しい機会が熟してくれるはず。その大きな機会の1つである、9月29日からのタカタカユニットでのツアーでも、また音楽を通して、多くの人と出会えますように。


このあとは“diary”につづきます。


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