<3> ブルー・チーズな音楽 ??


 早速つまづいた。文章を書き出すとついサンティアーゴ音楽に傾いてしまう。このサイトには "chacarera proyecto" のページがあり、サンティアーゴのディスコが並んでいるページもあって、新しいページは別のねらいで始めたものだ。だからグッとこらえなければならないのに。
 サンティアーゴ音楽はアルゼンチン・フォルクローレの一部分である。北西部の、クージョの、パンパの、スールの、大河地方の、様々なフォルクローレを感じて、そのうえで語った方が良いものなのに、いきなりサンティアーゴ一点集中では……。
 私はアルゼンチン音楽の大ファンである。フォルクローレのみならずタンゴもアルゼンチン・ロックも(ロックはほんの数枚だけれど)愛聴する。ボリビアのフォルクローレはかなり聴くし、ペルー、チリ、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラも好きだ。ちょっとだけコロンビアもブラジルも聴く。(キューバも、ね。)
 ところで日本でフォルクローレと言えば「アンデス音楽」を指し、かなりの部分がボリビア音楽である。アンデス音楽についてはいろいろな方が情報を発信されているし、ブラジルやキューバは私の出る幕ではない。だが、アルゼンチンのフォルクローレについては情報が極めて少なく、今の日本からどんどん遠ざかってしまうのでは、そんな危機感? が募り、こんな無謀な企画を考えてしまった。だからその線でテッテテキにやらなければ、ネジが締まらない。
 「フォルクローレ=主にボリビア音楽」のいきさつは「ボリビア音楽館カバーニャ・福岡稔小伝」 >>> で書いたので、そちらに興味を持ってくださる方はご一読いただきたい。しかしその冒頭の一節はこのコーナーの重要なポイントなので、どうせもともと自分の文章、そのまま転記してしまった。以下が日本における1960〜70年代以降のフォルクローレの(…だいたいの…)ルーツである。

 1970年代の日本は、フォルクローレ・ブームの最初の時期であった。商業音楽上のフォルクローレという呼び方や分類は、第2次大戦後にアルゼンチンから始まったもので、アルゼンチン北西部や草原部の音楽に代表されるものであった。60年代までの日本では、それほど広く知られていたものではなく、少数だが熱心な愛好家たちが、アタウアルパ・ユパンキ(64年初来日)やアバロス兄弟(66年に1度だけ来日。ケーナ上演の初渡来だったらしい)、ロス・キジャ・ウアシ(72年初来日)、ロス・チャルチャレーロス等のアルゼンチン音楽のレコードを愛聴していた。当時新たにファンになった者は、中南米音楽研究のパイオニアたちの記事を、唯一の専門雑誌『中南米音楽』からむさぼるように読み、数少ないレコードを探し回った。
 やがてラジオからもフォルクローレの音色が聞こえるようになり、レコードも少しは入手できるようになった。こうして、戦前から主流であったラテン・タンゴに、ようやくフォルクローレが中南米音楽の主ジャンルとして加えられてきた。だから、そのころのファンにとってフォルクローレのイメージとは、パジャドール(吟遊詩人)のギターと歌、ガウチョ姿の男っぽいコーラス、歌手と楽団、アコーデオンの音色、等々……なのである。
 しかし70年代に入るとこの流れは大きく変化する。特筆すべきことは、アンデス音楽がフォルクローレの中に、というよりむしろ商業音楽の中に、地位を得たことであろう。1970年の「コンドルは飛んでいく」のメジャー・ヒットが、フォルクローレに興味を持つ新たなファンを生み出したことはまちがいない。70年代中期はかなりの数のフォルクローレ盤が国内出版され、新譜が毎月レコード店に並んだが、それらの多くはアンデス音楽であった。おそらく、古くからアルゼンチン北西部や草原部のフォルクローレを愛好する人たちは、唖然としたであろう。
 しかしこの現象は、中南米音楽に新たなファンを呼び込むことになった。これらのアンデス音楽は大半がケーナを中心とするもので、フォルクローレ・ブームというよりは「ケーナ・ブーム」というべき性質のものであった。これは、ヨーロッパにおける60〜70年代のアンデス音楽の動向とほぼ同じであるから、本場南米諸国の事情はともあれ、国際市場での商業音楽の傾向であったのだろう。だが日本人には「言葉の壁」がある分だけ、ケーナの演奏ものに好みが集中したと見ることもできる。
 さらに重要なのは、このアンデス音楽愛好熱はレコードを鑑賞するだけではなく、自分たちも演奏するという強い傾向を持っていたことである。この現象はかつてのフォーク・ブームと似ているが、ほとんど和製化しなかった。本場のスタイルをコピーあるいは踏襲し、できれば本場に同化しようとした「本物志向」は、ウェスタンの愛され方に似ているが、演奏したいというファンが増大したのは、ケーナという楽器のおかげであろう。
 福岡がケーナの東出五国とともに「ロス・コージャス」を結成したのは1974年で、これがおそらく日本最初のアンデス・ボリビア音楽の演奏グループである。
 福岡は、ケーナより、のちに「それは虹色の音色だった」と語るチャランゴに強く惹かれ、手を尽くしてようやく楽器を入手すると、その奏法研究に取り組んでいたのであった。もちろん先人はいないのだから、まったくの手探りである。ブームのおかげで徐々に来日が増えてきた南米の演奏家を宿舎に訪ねては、本場の奏法を学び取り、さらにはチャランゴの自作にも取り組むようになっていた。ロス・コージャスを結成して演奏活動を始めると、やがてそのあとを追うようにいくつものアマチュア演奏グループが誕生し、アンデス音楽のコンサートが開かれるようになった。フォークからの転向組はギターが弾けたし、中にはウクレレからチャランゴに移行した者もいて(福岡がそれである)、グループでの演奏熱は急速に高まった。 
(『福岡稔小伝』・小林隆雄 より)

 ケーナやチャランゴは日本人の味覚にとても良く合った。だがアルゼンチン・フォルクローレの大半は牧畜・酪農風、バターやチーズのようである。もっとも現代の日本人は「そんなもの、別に……」と思うかも知れないが、昭和30年代半ばまで都会以外ではそういうものは簡単には食せなかったのだ。
 最近は、なじみ深いプロセス・チーズだけでなくチェダー、ゴーダ、カマンベール、モッツァレラ、パルメジャーノ……なんてどんどんチーズ通が増えている。でもブルー・チーズを「おいしいから食べてごらん」と勧めたらどうだろうか。好きな人なら他人もうまいと感じるはずだと思ってしまうが、実際はそうではない。しかし、白カビタイプの味がわかってくると今度は青カビを、今度は山羊のチーズやウォッシュタイプを……。こういう味は病み付きになったら止まらない。遊牧系のアラブ、北アフリカ音楽は山羊のチーズ、サンティアーゴ音楽はブルー・チーズ。われながらいい例えだと思ったが、人は「暴論」と怒るかも知れないね。
 いわゆる“フォルクローレ”の概念でアルゼンチン・フォルクローレを聞いて、「フォルクローレじゃないみたい……」とおっしゃる方も、現実に結構いるのだ。だから、いきなり「サンティアーゴ音楽はステキ!」と感激しない方が身のためと申し上げたい。もちろん本当にそうなる人もいるにはいるが、大半の方は、アルゼンチン・フォルクローレを広く味わいながら徐々に食さないと、やがてその味のどういうところが好きだったのか、わからなくなってしまうことになる。私もせっかく同好の士になれた方を失わないように気をつけて、このコーナーを続けていこうと思ったところである。 <ffuma takao 2006.2.10>


<4>へつづく
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