<4> 骨と皮と塩を神に返すとき
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カルロス・カラバハル"Carlos Carabajal"の逝去を悼む


 ああ、ついにまみえることが叶わなかった偉大な音楽家の死について書こうとしながら、この一週間、私の心には逡巡と寂寞の思いが交錯するばかりだった。2006年8月24日、カルロス・カラバハルが天に召された。
 サンティアーゴ・デル・エステーロのギタリストであったフランシスコ・ロサリオ・カラバハル "Francisco Rosario Carabajal" とマリア・ルイサ・パス "Maria Luiza Paz" には、男ばかり12人の子供がいた。エクトル、エンリケ、エルネスト、フリオ、カルロス、ロベルト、アグスティン、レネ、オスカル、ネストル、ラウル、クティの兄弟である。
 音楽一家カラバハルのなかでも、5男カルロス "Carlos"、7男アグスティン "Agustín"、12男クティ "Cuti" は優れたフォルクロリスタで、彼らの子供世代、“チャカレーラの母”と呼ばれ愛されたマリア・ルイサからは孫の世代であるカリ、マリオ、ペテコ、ロベルト、さらに曾孫世代にまでカラバハル一族の音楽は脈々と引き継がれている。
 カラバハルの名を世に知らしめたのは、ロス・カラバハル "LOS CARABAJAL"、そしてペテコ、クティとロベルト・カラバハルらの活躍によってであるが、その種を蒔き育てたのは、カルロスと、弟のアグスティンであった。カルロスは、古いファンには懐かしいエルマノス・シモン楽団や数々の楽団の演奏・録音に加わったり、ロス・マンセーロス・サンティアゲーニョスに参加しつつ、アグスティンが提案したロス・カラバハルの誕生〜黎明期を、弟や息子、甥たちとともに背負ってきた。
 アグスティンが夭折した後も、カルロスはサンティアーゴ音楽の発展に身を捧げてきた。チャカレーラのコンサートやフェスティバルの実施に力を尽くし、トゥルジェンケ "Pablo Raul Trullenque" フアン・カルロス・カラバハル "Juan Carlos Carabajal" たちとともに多数の名曲を生み出した。末弟クティや息子ペテコ "Peteco"との合作も多く、カラバハルの名を知らない……というより、アルゼンチン音楽にさほど馴染みのない……日本のファンたちでさえ、彼の名作のいくつかはどこかで耳にしたことがあるはずである。
 こうして、カルロスは“チャカレーラの父”と賞賛されたのであった。
 私は30年近く前から、カルロス・カラバハルがどういう人なのかも知らないまま---さほど意識しないまま---、カルロスの作品をいくつも好きになり、愛聴してきた。カルロスについてようやく知ることができたのは1989年になってからであった。このコーナーの「<1>ペテコのビオリン "El Violin de Peteco"」で触れた「サンティアーゴの日曜日 "DOMINGO SANTIAGUEÑO"」も、カルロスの名作だったのである。この曲はこう歌い出す。「サンティアーゴの日曜日は、そんじょそこらの日曜日とは違うわい。陽が昇りそして沈んでも、チャカレーラが鳴りひびく」。……私の中でチャカレーラはますます膨れ上がり、カルロスはどんどん大きな存在になっていった。
 フアン・カルロスとカルロスの作「チャカレーラの種を蒔いて行く "SEMBREMOS LA CHACARERA"」は、「サンティアーゴ・デル・エステーロからチャカレーラの種を蒔いて行く。世界中の誰もが歌をおぼえてくれるよう(2番は“踊りをおぼえてくれるよう”)」(フアンカ詞:瀬賀倫夫訳)と歌う。私は、歌をいくつも覚えましたよ、ようやく踊れるようになりましたよと、天国のカルロスに答えよう。

 カルロスの最高傑作のひとつ(私はそう思っている)、「ノックせずに入っておいで "ENTRE A MI PAGO SIN GOLPEAR"」の最後は、次のような一節で締めくくられる。
「この人生は貸してもらったもんだから、いつかはそれを返さにゃならん。神様がおれを召されたとき、骨と皮と塩とで生まれた土地を肥やすようにと召されたとき。」(トゥルジェンケ詞:瀬賀倫夫訳)
 彼は今厳かに、骨と皮と塩を神に返したのである。<ffuma takao 2006.8.30>

★カルロスがロス・カラバハルとともに歌う名演ENTRE A MI PAGO SIN GOLPEAR、ペテコのビオリンが聞こえます。 "Patriarca de la Chacarera EMI LOW 8 52821 2 (1996)"の入手はなかなか困難と思われますが、まだ日本国内で見つけることができるかも知れません。


<5>へつづく
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